第三章

 約ひと月ぶりに草枕プロジェクトの再開となる。第三章は漱石の宿泊した宿が舞台となるが、場所を確かめるため「草枕交流館」へ向かう。温泉のすぐそばにあったため場所は分かっていたが、やはり駐車場に他の車はなく、ひっそりとしている。横開きの重い戸を開けて中に入ると、どこからともなく係の女性がやってきて、電灯のスイッチを慌ただしく入れた。今日、あるいはここ数日、他に訪問者はいたのだろうかと訝らずにはいられない佇まいである。無愛想ではないが人よりも本が人生の連れ合いといった風情のその女性は、十分程のビデオがあるからとやや手間取りながら上映の準備をし、映写してくれた。映像は程なくして終わったが、例の女性が戻ってくる気配はない。電灯の場所も分からぬので薄暗いなか周りの展示物を見ていると、またどこからともなく現れて、舞台となった宿は五時で閉まるから早く行ったほうがいいと、ろくに展示物を見る間も与えず急かすので、こちらもそそくさと「草枕交流館」を後にした。
 半分以上が消失したと思われる元宿の部屋は殺風景な感を否めなかったが、もとよりこのような部屋だったのだろう。畳の上に座って『草枕』第三章の朗読を始めると、程なくして朱塗りの縁をとった額が文中に出てきた。ふと目を上げると、これを朱塗りと言って良いか分からぬが、天晴なことに「竹影払階塵不動」の額がこの部屋にも飾ってある。しかしどこを見ても素人には「大徹」といふ落款は見えぬ。これが其の落款か、或ひはやはり別物かと思案するうちに、先ほど「草枕交流館」で世話になった女性が、先ほど感じたのには不似合いなほどの笑みをたたえて、五時になったとやってきた。この不似合いな笑みは、あえなく時間切れとなった気の毒な訪問者に対してつい漏らしたものというよりは、この人気のない時と場所に現れた訪問者が時間まで逗留したことに対する嬉しさのように見受けられた。地味な眼鏡に飾り気のないこの女性は、自分の人生に不相応な野心も抱かず、平凡な日常に仕合を感ずる女に違いない。
 結局はじめの数頁を読んだところで追い出され、第三章もまた仕切り直しとなったのであった。

              五月二六日

 追記 この一週間後、件の宿にて第三章の朗読は完遂された。