かはらぬ春とおもへども
今年期せずして厄年を迎えた藕花(ぐうか)先生は、表向きはかような旧弊たる俗説など歯牙にもかけない風を装ってはいたものの、内心では様々な災厄を思い描いていた。とはいえその多くは、学会発表が不首尾に終わるとか、FD授業評価が惨憺たる結果に終わるといった、自分の能力の無さを厄年に転嫁しようとするものであった。その中で、アキレス腱断裂での入院の予感を、ウォーキングすらしない先生がなぜリアルに感じていたのかは全くの不可解ではあったが、誕生日を目前にして病気で一週間入院するというものは、先生の災厄リストにも全く抜け落ちていたものである。
突然の発熱にも薬を飲んで一晩寝れば、いつも通り大丈夫と高を括っていた先生であったが、この時ばかりは翌日にも熱が下がらぬどころか飲み食いもいっさい出来なくなり、脱水症状で救急外来に運ばれるという事態となった。普段であれば、発熱ごときで夜中に救急外来へ担ぎ込まれるという大げさな事態を潔く受け入れる先生ではなかったが、今回あっさりとそれを肯んじた大きな理由の一つに、ちょうど数日前から読みふけっていた『苦海浄土』にあった「突然発症し、一週間二週間で死んでいく」というフレーズが想起せられ、先生はどう考えても有機水銀中毒ではないにもかかわらず、自らの体調の変化を不治の病と重ねあわせてしまったということがある点は否定できまい。実際、隣近所の目さえ無ければ、躊躇無く救急車の助けを借りたい程の容体だったのであり、タクシーで病院へ向かったのは、本人以外には定めし何の意味も無い、先生最後の意地であったろう。救急外来での点滴により脱水症状を脱し、多少の思考が戻った折には、入院という大げさな措置をとるのは良いが、翌朝には平熱に戻って周囲の顰蹙を買うのではないかとか、家にいるときのように氷枕を思いのままに要求する事も出来ないだろうとおぼろに考えていた。しかしその危惧も病室に運ばれる間に一掃された。寝転がったまま運んでもらうのは幾分申し訳ない気もしたが、院内の設備は真新しく、立ち話を耳に挟んだところでは、新築されてまだ一年半しかたっていないというこの病院の壁には様々な絵画が掛かり、「ティールーム」なる表示まである。四人部屋の病室に着いたとたん看護師が、本物の氷がざくざく入った氷枕を持ってきてくれ、何かあればいつでも呼んでくれと言う(さらにその後、熱が三九度を超えた際には、要求せずとも先生の氷枕は二つになった)。
藕花先生は、やや満ち足りた気分になりながら、夏の睡眠不足をこの病院で補おうと心安らかに誓い、そして容体が快方に向かい「ティールーム」に通うときを夢見た(ただし「ティールーム」と表示を見たのは朦朧とした先生の意識のなせる技で、実際には「デイルーム」であり、動き回る元気の出た先生に「ティールーム」の場所を聞かれた看護師は、一瞬その意味を解しかねた)。
こうして藕花先生は、銀杏城下の病院の住人となった訳だが、その病状は先生が予見していたようには楽観的なものではなかった。それから三日間は熱も日に日に上昇し、検査を繰り返すも原因は皆目分からず、解熱剤を使いながら点滴だけで命を長らえるという事態となった。解熱剤を飲んでも数時間三七度台に下がるのみで、熱がついに三九度六分まで達した晩には翌日の四〇度も覚悟した先生であったが、幸いにしてその翌日から熱は下がっていった。
このように発熱と格闘していた藕花先生は、入院して数日後には、自分の体温を検温せずとも言い当てられるようになった。看護師が時々「調子はどうですか」と様子をうかがいにくるが、その度に、「今、八度三分から五分くらいの間です」とか、「今、九度二分です」、あるいは「七度五分まで下がりました」などと答え、実際測ってみるとその通りなのである。もちろん先生は、「体温を言い当てる患者」として自分が看護師室で話題になっていたことなど知る由もなかった。
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実はこの病棟は、眼科と皮膚科の患者が主で、先生は偶然空いていたベッドに急患で入ったのであり、単に白内障手術のため入院していた同室の他の三人は概して元気が良いのであった。点滴をして弱って寝ている先生とは異なり、彼らはむしろ暇を持て余してベッドにごろごろしている風で、テレビを観たり、雑談をしたり、かと思うと突然昼夜をしたりして、日がな暮らしている。ひと月前には全くのマイナー競技でありながら、メディアの知謀にのせられた集団的熱狂によりいきなり脚光を浴びた〝どどすこジャパン〟のオリンピック予選の際には、各々のベッドのテレビとイヤホンで試合を観ていながら、得点の度に各ベッドから同時に歓声が上がる。そして得点した選手と一緒になって、時にそこに看護師も加わり、〝Love注入〟の決めポーズをとっている。先生はこのような移り世の流行り廃りには何の興味も持たぬ、という風情を保ったまま、トイレに行くにも点滴のキャスターをごろごろ引きずりながら弱々しく進んでいくのであった。
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熱が上がりつづけていた初めの何日かはトイレにもほとんど行かなかったが、容体が安定し、例のようにキャスターを引きずりながらのそのそとトイレに向かっていたある時、斜め前の同居人と初めて挨拶を交わした。その初老の患者子は、白内障の手術を受けにきたごく普通の老人であり、おそらく何の野望も持たない老後を送る、気さくな老翁であったが、入院生活のため顔の半面に頬髭を蓄え、あたかも刻んだ年輪を全てその表情に湛えているベテラン俳優のごとき風貌であった。先生は、いったい歳をとって無精髭を蓄えれば、誰でも人生を知悉したるかの様な相貌を醸し出す事の不思議を思った。
その患者の正面、先生の隣のベッドの人なつこい丸顔のおやじは、のべつまくなし喋っているか物を食べている。糖尿病から白内障になったと言いながら、先生が隣で寝ていても、絶えず菓子の袋を開けぼりぼり食べている様子が伝わってくる。面会者と会うときも、わざわざ売店前を待ち合わせ場所に指定し、菓子パンの袋とともに病室に戻ってくる。本人に言わせれば、血糖値を下げる薬を飲んでいる関係上、低血糖になりめまいなどの症状が現れるのを防ぐために糖分を取る必要があるのだそうである。
この愛すべき同居人は、自衛隊を定年退職したとの事であるが、先生にも元自衛隊員の知り合いが何人かおり、その全員に共通しているのは、いずれも軍隊組織の持つイメージからはおよそ想像がつかない、柔和な人たちだという事である。かつて先生と同僚であった元自衛隊員は、トイレで横に並んだ時など、「夜中に寝床でテレビの落語を観てゲラゲラ笑ってたら、かーちゃんに怒られちゃった」などといいながら鼻歌で演歌を唄う事務員であった。また別の元隊員の事務員は、サングラスをかけ口を真一文字に結び、人を寄せ付けない風情で仕事を遂行するが、仕事以外の場で会うと、「先生~~」などと言いながら満面の笑みで近づいてきて、先生の身体をペタペタと触割ってくるのである。また先生の家の近所をランニングシャツに短パンで犬の散歩をする小柄な別の元隊員は、いつもにこにこしているため、先生はてっきり酒屋のおっちゃんだと思い込み、勝手に前掛け姿を想像していたものである。この不可思議な現象は、自衛隊がかつて地域の地場産業として、地域のごく普通の青年たちの就職先としての機能を果たしていた故であろうか、それとも組織活動となると人は誰しも隠された面を出すのであろうか。
先生の向かいの患者は、今は無き田舎の風情を彷彿とさせる老人であった。医師の処置一つ一つに「恐れ入ります、ありがとうございます」「恐れ入ります、ご迷惑をおかけします」としきりにかしこまっている。「点滴を手の甲からとっても構いませんか?」と医師に聞かれると、「ええ、もうどっからとってもらっても構いません、よろしくお願いします」と、何でも仰せの通りである。「患者の権利」だの消費者マインドだのが浸透した現在、医師に対して最上級の尊敬と畏怖の念を抱きながら、そのような偉い存在に対して迷惑をかけている自分を厄介者として恥じ入るという、近代的病院とは全く不釣り合いの老齢の人物に遭遇し、藕花先生は我知らず郷愁をかき立てられた。かつての田舎の老人とは、皆このようなものであったのだろう。医者、学校の先生、役人など身の回りの「偉い人」を、自分たちとは人種の違う、いくら背伸びしても届かない存在として畏れ敬っていたのであろう。「わしら無学なもんには分からんですけん」と言って、御用学者や役人や裁判官を信頼し、裏切られた水俣の漁師たちの、絶滅寸前の貴重な最後の生存者に遭遇したかの感を先生は抱いた。
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熱が下がりはじめ、先生の意識にも余裕が出てくると、この夏じゅう頭を悩ませていた問題にまた思い煩わされるようになった。それは、シャツの裾をズボンに入れるか否かという、傍から見ればどうでもよい事ながら、穂村弘のエッセイに「シャツの裾をズボンに入れていて大笑いされた」という記述を見つけて以来、先生にとっては外出のたびに頭を悩ませる大問題となっていたものである。先生は概して裾を入れる派である。運動着のときも、Tシャツの裾をズボンに入れている。子どものときからそのようにしつけられてきた世代である。先生は、裾を入れるか入れないかの境目は、自分の世代辺りにあるのではないかと感じていた。しかし実際には、全世代においてTシャツやポロシャツはもちろん、ワイシャツですら裾を出すのが一般的になりつつある事に、先生は最近になってようやく気付いたのである。先生はこの夏、京都、名古屋へと行く際に、目の前を通る全ての人たちの裾を観察した。結果、ポロシャツの裾を入れていた、自分より幾分年上のおじさんが一人目撃されただけで、Tシャツに至っては、ズボンに入れているものは皆無であった。俗世の所作を気にしていないそぶりをしながら、実は他人の目を極度に気にする藕花先生は、裾を入れるか否かが日々の悩みの種となった。京都での同窓会にも、思い切ってポロシャツの裾を出していったが、先生の予想通り、裾をスボンに入れている者は一人もいなかった。もはや世代の問題ではなかった。
しかし一番の問題は、知った学生たちのいる職場での所作である。学生諸君は何も言わないが、実は自分の裾入れを陰で嘲笑しているのではないか、しかし逆に裾を出していると、だらしない、イメージが違う、と思われるのではないか。先生は袋小路に陥ってしまった。ワイシャツならば、それでも自信を持ってズボンに入れる事は出来たが、問題はポロシャツである。ポロシャツの裾を出す事は、先生にとってはつい最近まで思いもよらぬ事であったが、数多くの人を観察し、裾を入れている人物には一名しか遭遇しなかったという事実が先生を極度に消極的にした。先生は、今回の病気の原因に、この服装をめぐるストレスが一役買っているのではないかとの危惧を抱いた程であった。
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藕花先生の病気の原因は、結局分からずじまいであった。三度の血液検査や尿検査、レントゲンでも、「健康な成人男性の値とほとんど同じ」と言われた。ウイルスも疑われたものの、喉の炎症も腸の不調も無く、CTで喉や腹部を見ると言われたが、何ともないところを見ても仕方が無い。いよいよ髄液をとって髄膜炎でないか調べることとなったが、髄膜炎に伴うと言われる激しい頭痛も無い。医師がお手上げであれば、医師の盲点を突くような原因をこちらが提示するしかあるまい。藕花先生はかように考え、第一にマラリアを挙げた。藕花先生はかれこれもう二〇年近く前、すなわち「旅人だった頃」と自ら称している時期、中国やタイの奥地に、マラリアの予防薬としてファンシダールを飲みながら、放浪していたことがある。そして大学時代の師匠が、「マラリアは持っていると体力が弱ってきたときに発症して高熱で夏でもぶるぶる震える」と言っていたのを先生はよく覚えていた。先生はすかさずマラリア説を看護師や医師に開陳してみたが、大病院の医療関係者ですらマラリアには虚を突かれたらしく、看護師はマラリアの原因は細菌であると言い、医師は、自信なさげではあったがマラリアは寄生虫によってであると言い当てたものの、その具体的症状までは流石に即答は出来なかった。
結局潜伏期間などの理由からマラリア説は却下されたが、先生が次に持ち出してきたのが狂牛病説である。ちょうどイギリスで狂牛病が話題になっていた頃に自分はイギリス修行中で、同居人マーチンの羨む視線も顧みず、料理の手を抜いてはしばしばステーキを焼いて食べていた旨を先生は医師に力説した。狂牛病の症状に関しても医師は即答できなかったが、このような患者の常軌を逸した質問にも、昨今の医療従事者は誠実に対応せねばならない。かように先生は、自分を手当てしてくれていた人たちをたびたび困らせていたのであるが、本人は彼らにとってもずいぶん勉強になったはずだと悪びれるそぶりは一切見せなかった。
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原因はよく分からなかったとはいえ、熱が一段落すると、先生は病室でパジャマの裾を出すべきか、出さざるべきか思い悩み始めた。裾を入れていたら、看護師や、他の患者たちはどう見るであろうか。しかしどう考えても、寝ていて裾がめくれて背中やお腹が、たとえ布団のなかでも剥き出しになるのは気分が悪い。そこで先生はパジャマの裾はきっちりズボンに入れていた。
ある時、いつものように点滴のキャスターを引きずりトイレに向かいながら、斜め前の仲代達矢に挨拶をすると(先生は、寡黙であればリア王でも演じられそうな容顔のこの老人を、いつしか「仲代達矢」と呼ぶようになっていた)、何とこの人物においてもパジャマの裾を出しているではないか。先生は心の中で「仲代達矢に負けた」、とつぶやいた。それ以来、先生は、自分のベッドではパジャマの裾を入れながら、トイレに立つときにはわざわざ裾を出す、という繊細ぶりを発揮した。この事に気付いた患者諸子、医療関係者は皆無であったろう。人生とは、このような無駄な努力の無数の積み重ねから成り立っているものなのかもしれない。
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結局この四人部屋の住人のうち、先生も含めた三人が同じ日に退院する事となった。元気になった藕花先生は、退院後迎える誕生日祝いのケーキと夕飯は、モンブランとエビフライとすることを令閨に所望した。退院当日、その三人は朝からそわそわ落ち着かなげで、めいめいその準備を始めていたが、息子が早朝から来ていた仲代達矢が第一番に去っていく事となり、その用意ができた氏は、息子とともに藕花先生のもとへ挨拶にやって来た。仲代達矢とその息子は深々と頭を下げていったが、そのまじめで律儀そうな息子の服装に先生は目を見張った。真新しく見えるジーンズにポロシャツの裾をきっちり入れ込んでいるではないか。先生の頭は再び混乱をきたした。これは田舎故に可能な服装なのであろうか、それとも正装の一つとしてポロシャツの裾を入れることもアリなのか、あるいはこれも絶滅寸前のファッションとして周囲をセピア色に変えてしまうような種のものなのか。動揺を抑えきれぬ先生の、治まりかけていたはずの熱はぶり返し、あろうことか藕花先生は、この病室で自らの誕生日を祝うことを余儀なくされてしまったのであった。
Sep/2011
追記——この逸話の数か月後、藕花先生は、自分が二〇年以上愛用する製品の考案者故S・J氏が、黒い長袖の服の裾を必ずジーンズに入れていたことに思い至った。先生ですら裾を出すようなタートル調の服を、堂々とジーンズに入れ込んでいるその在りし日の姿に勇気づけられ、藕花先生は完全復活を遂げた(らしい)。