人生とオーケストラの協奏曲
「アリーナ用定期券」と書かれた入口の列に一五年ぶりに並んだ藕花先生は、期待に胸をふくらませていた。十年一昔と言うが、一五年前と言えば、先生がまだ未来の自分の姿など顧みず、心の底から沸き上がる衝動に身を任せていた頃である。一五年ぶりの先生の企てとは、ロンドンの夏の音楽祭プロムスで、一五年前にイギリスで修行していた頃と同じように定期券を買って、プロムスの代名詞である「プロマー」と呼ばれる立ち見客となって、オーケストラを目の前に演奏を聴こうというものである。藕花先生は、近年は学会などで渡英することがあっても、もはやプロマーとはならず、座席券を購入し、プロマーの周りを取り囲むように配置された座席の一角で演奏に聴き入った。その理由は、定期券を買って行くほどたくさんのコンサートに行くわけではないし、何よりトイレ・シャワー共同の安宿に泊まっていた頃とは違うのである。
しかし先生は、何か物足りなさを感じていた。一五年前に受けた衝撃——コンサートの始まる前に列を作り、そしてオーケストラや指揮者を目の前にして、他のプロマーとともに立って演奏を聴いていたときに受けたような衝撃を受けることが無くなったように感じていたのである。もちろん数々の素晴らしい演奏に立ち会ったし、そのときの印象は今でも憶えている——アバド、ルツェルン祝祭管弦楽団、ハイティンク、シカゴ響、ラトル、ベルリンフィル。しかし先生は、何かが違うと感じていた。この違いは、単に聴く場所の違いなのか(オーケストラの音は、2階席が良いとされるが、先生は演奏家の息づかい、集中力が伝わるくらいの距離で演奏を聴きたいのである)、それとも(先生が内心感じながらも無意識に否定しようとしているように)やや社会的地位が上がって高価な座席に座って聴くという時点で、ハングリーだった頃の貪欲さや感受性が失われるのだろうか。
そこで久々のプロマーとなることを思いついたわけだが、ただ藕花先生には一つの懸念があった。歩いて仕事場に通っただけでその晩風呂で足がつり、たまにスポーツを楽しめば翌日から一週間腰痛に悩まされるという、この一五年でめっきり老け込んでしまった老体に、立って演奏を楽しむ体力があるのだろうか。演奏に身が入らないだけならまだしも、演奏中に耐えられなくなって倒れるとかいった、ミスター・ビーン的顰蹙を周囲に与えはしまいか。しかし一五年前の興奮をもう一度という青春懐古的な衝動が、そのような不安に打ち勝った。欲求が沸き上がると抑えられなくなり、後先考えずに一歩を踏み出してしまうところは、昔と変わらないのである。
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アルバートホールにできた列に並んで入場を待っていた藕花先生は、一五年前との違いに若干の戸惑いを感じていた。先生がホールに到着し、すかさず「アリーナ用定期券」入口に駆けつけたときには、ベルリン・フィルの演奏を前に、誰一人列を作っていなかったのである。藕花先生は、信じられないながらもこれも時代の流れかと、一番乗りも気恥ずかしいので周囲を徘徊すると、すぐそばの広場に人が集まっている。この人たちはプロマーに違いないと直感し、そばにいた係員に定期券を持っている旨を告げると、整理券を渡された。一五年前には整理券などなく、来た者から列を作って時間までひたすら並んでいたものだが、いつの間にかプロマーは整理券を手に入場時間を思い思いに待つようになったようだ。携帯用イスを持参して一団になっている者たち、数人で音楽談義に花を咲かせる面々、あるいは階段に座ったり塀にもたれながら本を読む者たち。開演一時間前になり、待ちわびた音楽ファンたちが整理券の番号を見せあいながら列を作る。ここで先生はまたあることに気が付いた。一五年前、自分の老いなど全く念頭になかった先生にはそのような光景は目に入らなかったのだが、衰えを意識する年齢になり周囲を見回してみると、年配のプロマーが実に多いのである。自分より下の世代はむしろ稀なくらいだ。自分より若い者はどの程度かと数えはじめた先生の目の前に、ジーンズ姿の若者三人がふらりと現れた。その三人を数に入れようとしよく見ると、それは樫本大進とベルリン・フィルのメンバーたちであった。入場を待つ列は、だんだんと前へ進んでいった。
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四年前に先生が聴いた、ラトル率いるベルリン・フィルの印象は、ショスタコーヴィチの一〇番でのテクニックを見せつけるかのような非常に高速での演奏(この演奏の新聞での評は、「ショスタコの本質を見せるような」云々とあり、先生は首を傾けた)、あるいはヴァーグナー『トリスタンとイゾルデ』序曲の尋常でない盛り上がり。メシアン『トゥランガリラ・シンフォニー』での、空からでなく地上から天上に向かって突き上げる稲妻のごとき、アルバート・ホールの天井を突き抜けるかと思わせたパーカッション。
今回は、リゲティ『アトモスフェール』から始まった。オーディオの音量0から次第にヴォリュームを上げていき、また音量をだんだんと絞って音を消していくかのような音量のコントロール。一つの楽器でも藕花先生には想像のつかないこの技術を、複数の楽器で可能にする。そして複数の楽器で音を出していても、一つの音に聞こえ、それが別の楽器へと引き継がれていく。
『二〇〇一年宇宙の旅』と切り離せない、宇宙空間を突き抜けていくような楽層が、叙情的なメロディに変わる。リゲティにこのようなフレーズがあったかと一瞬いぶかしむが、それはヴァーグナーの『タンホイザー』序曲が続けて演奏されていたのだと気付く。演奏後はプロマーたちがこの連続演奏について興奮して話し合う。ルトスワフスキーの交響曲第四番は、狂気に取りつかれた笑いのような弦の音など、このオーケストラでないと出せないのではないかと思わせるような現代曲の音を鳴らし続ける。
ラトル・ベルリンフィルは、究極のテクニックを誇る。ラトルの演奏は、心の琴線に触れるという演奏ではないかもしれない(先生の隣に陣取った、週末定期券で来たという男性は、ラトルの演奏について言葉を選びながら"self-conscious"という表現を使っていた)が、マーラー以降の曲を、ラトル以上にエキサイティングに演奏できる指揮者はいないであろう。しかし先生は、アバド時代のベルリン・フィルから一五年前に受けた衝撃が忘れられないのである。
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アバド時代のベルリン・フィルは、「オーケストラが揺れる」とよく表現されたが、その言葉に表されるように、音楽が聴こえてくるというより重厚な建築物が目の前に立ち現れ、それがときに揺れ、ときに伸縮するかのような感覚を抱かせたものである。マーラーの「復活」では、奥のほうからのっしのっしと巨人が歩いてくる。「音で表現する」というのではなく、実際に巨人がだんだんと近づいてくる気配とオーラ。ブルックナーの第五番の、聴衆に向け飛んでくる音のクラスター。オーケストラ中央の、しかも一番高い特権的な位置にあるティンパニーが小さな連打でこの建築物の基底を支える。そしてそのティンパニーがだんだんとヴォリュームを上げていくとともに、建築物の底から全体が持ち上がり、目の前に、一分の隙もない壮麗な建造物が立ち現れる。アンコールでのベートーベン『コリオラン』序曲の重厚な弦。アンコール三曲目のブラームス『ハンガリー舞曲』第五番をこの重厚なサウンドで聴くとかえって滑稽なほどだ。アバドの誠実な演奏に付加されたこのような質感は、ディスクで再現することはできないであろう。日本の評論家陣の間でアバドの評判が芳しくなかったのは、ここに一因があるのではないかと先生は考えている。
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ラトルは演奏後、興奮する聴衆に迎えられて「ルトスワフスキーのような壮大な曲の後には通常アンコールはしないけれど、世界一素晴らしいオーディエンスのために、ドヴォルザークを演奏します。三分の曲を二分で」と言い、『スラヴ舞曲』第七番を演奏した。
ラトルのベルリン・フィルを初めて聴いた四年前のプロムスでは、同時にマゼール、ニューヨーク・フィルハーモニック、ハイティンク、シカゴ交響楽団も聴いた(先生はプロマーではなく座席で聞いた)。マゼールは『春の祭典』の後にアンコールで『ハンガリー舞曲』第五番をやり、プロマーたちから喝采とも失笑とも取れる声が上がり、マゼールもアリーナのほうに顔を向け笑い返していたが、三曲目『アルルの女』では、高速でありながら一糸乱れぬ小太鼓とピッコロ、そしてその小太鼓の音が徐々に大きくなり、他の楽器も加わり最高潮の盛り上がりに達する。先生は、幼い頃この曲を好んでよく聴いていたことに深く感謝した。遠い過去の下地がこの演奏の喜びを増幅させたように感じられたのである。
ハイティンクとシカゴ・シンフォニー。シカゴ響は、先生もプロマーとして修行時代に聴いている。バレンボイムの指揮でバートウィスルのヨーロッパ初演とマーラーの第五番。金管など多少の荒っぽさは感じられたが、世界一の怪力オケといわれるパワーは凄まじく、ベルリン・フィルの緊密な建築物とは異なり、目の前に超巨大な高層建築がそびえ立ち、文字通り身体が天を指して昇っていくような高揚感を味わったものだ。それから一〇年が経ち、ハイティンクの指揮下に置かれたシカゴ響は、弦の音色も木管も美しく、洗練されたオーケストラになった印象を受けた。マリー・ペライアとともに登場したマエストロ、このコンビでのベートーベンのピアノ協奏曲第三番、第五番を愛聴している先生は、約四半世紀ぶりにコンビを組んだというこの二人が、若い頃に培った信頼感をお互いに抱いている様子で演奏し、観客の拍手に応えているのを見て感慨無量であった。ペライアのピアノは、CDで聴いていたように、心の底のしこりが溶け、安らぎと癒しをもたらすモーツァルトであった。
マーラーは、死への恐怖、それに対する牧歌世界への憧れ、といった要素の葛藤が曲を構成するが、ハイティンクの第六番の演奏は、各場面場面で、ある情景を目の前に写し出したり、ある感情を喚起させる。アダージョの楽章では、それより少しでも早くても遅くてもいけないという、これ以外にないというテンポ。これ以後先生は、ハイティンクのことを「最後の正統派巨匠」と呼ぶことに決めた。むしろハイティンクがベルリンでじっくりと音楽を創り、ラトルがシカゴでエキサイティングなことをした方が良かったのではないかとすら思ったほどである。
そもそも先生がハイティンクの凄さを思い知ったのは、イギリス修行時代、ロンドン交響楽団との初共演を聴くため、当時住んでいた街からロンドンまで出向き、二二時一五分の終電で帰ったときである。マーラー「巨人」の第三楽章、オーケストラの左端に配置されたティンパニーがゆっくりと静かに鳴らし始める。それに続いて一番右に配置されたコントラバスが、葬送の中に諧謔がにじむような、聴いているものを何ともいえぬ感覚へ導く節回しで音色を奏でる。その後雪崩を打ったように突入する最終楽章では、ハイティンクは指揮台から飛び上がって指揮をしていた(いったい七〇歳を越えて飛び上がる職業が他にあるだろうかと先生は考えたものだが、実際この後ハイティンクは体調を崩し、半年間休演した)。「巨人」はマーラーの曲のなかでは聴く機会が多いが、ハイティンクが他の指揮者より一段の高みにいることを納得させる演奏であった。
その後、何かの出張で渡英したさい、ハイティンク、ロイヤル・コンセルトヘボウのコンビでブルックナーの八番を聴き、コンサート終了後ホールの周囲をぶらぶらしていると、巨大なベンツがホールの脇に横付けされた。そしてしばらくして、予想通りマエストロが現れた。先生は一言二言、言葉にならない言葉を交わし、プログラムにサインしてもらった。最後の正統派巨匠は、にこやかに「OK?」と微笑み、ベンツに乗って去っていった。
今回再びハイティンクとペライアがウィーン・フィルとともに共演し、藕花先生の最も愛するピアノ協奏曲、ベートーベンの第四番を演奏するということで、先生はこのコンサートに最も気合いを入れていた。ペライアがピアノを奏で、そこにオーケストラの伴奏が加わる。この伴奏の繊細でやわらかい音色が夢見心地にさせる。ウィーン・フィルの特徴の一つは、恐らく他のオーケストラでは味わえないこの音色だろう。ハイティンクのタクトと融合し、フレーズの最後の音をふっと抜き、このやわらかさをかもしだす。ハイティンクの演奏は、幻灯を見ているかのように、演奏をバックに情景が目の前に浮かび上がる。リヒャルト・シュトラウスのあと、「まだ聴きたいかい、では一曲だけだよ」といった仕草でヨハン・シュトラウス「春の声」、あのやわらかい音色とワルツに自然に身体が動きそうになる。これこそが本場のワルツなのだろう。
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しかし先生は、演奏に心惹かれたのと同じように、プロムスに集うプロマーたちにも心を動かされていた。先生の目には、プロマーたちは、音楽がかけがえのない宝物だと確信し、人生を過ごしてきた人たちに映ったのである。いくつになっても音楽に対する情熱を失わない、愛すべき人たちなのである。外で入場を待つ間、いつも一人ぽつんと柵にもたれて座り込み、分厚い瓶底メガネにさらに虫メガネを使い、プログラムを顔から五センチくらいに近づけて熱心に読んでいる男性。自転車に乗って、半袖と膝上のカラフルな自転車スーツ姿で毎回登場する、髭とメガネの男性。プログラムを買うなり勝手知ったように広告部分をすぐさま破り捨てる男性。演奏会終了後、各ゲートに立って、音楽家を目指す若者への募金を集める人たち。膝が悪く、座ることすらままならぬ様子の男性もいた。彼はインターバルの間、周囲に申し訳なさそうな視線を送りながらも脚を投げ出して床に座り(「寝そべり」という表現のほうがふさわしい)、一人で二人分の場所を占拠する。てっきり友人の場所を確保しているのかと先生は思っていたが、インターバルも終わり楽団員たちの入場とともに、この男性は立て膝になり、片膝に両手を置き、五秒間静止し、そして「ん゛ーー」というかけ声とともに立ち上がるのである。
これら全て、人生の大仕事は終えた人たちである。彼らに共通しているのは、音楽に対する愛である。彼らがそこまでして音楽を間近で感じようとするのは、自分が洗練されているように感じるためでもなく、他人に自慢するためでもない。音楽に対する愛が、彼らをプロマーにしているのであり、音楽はこの人たちの紛れもない一部である。音楽が自分の一部であることを自負している藕花先生も、六〇代、七〇代になってまで、このように音楽に人生を捧げ続けることができるかどうか、彼らに対して尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
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イギリスでの修行を終えた一五年前からこれまでの間、人生という階段を登っていくなかで、思えば何と多くのことを経験したことであろうか。しかしにもかかわらず、相も変わらず短絡的な思いつきから行動する、何と相も変わらぬ自分であることか。藕花先生には、それが喜んで良いことなのか、悲しむべきことなのか、判断がつかなかった。これまでの一五年間、人生を精一杯生きてきたのか、それとも上手に手を抜きながら生きてきたのか、それすら先生には判断しかねた。否、むしろそのどちらでもあるように感じられた。人にはそれぞれ度量というものがあるのだから、自分にはこのような生き方しかできないのだ、それで十分なはずだ、と最近の自分の生活を顧みながら、藕花先生は妙に悟ったような感慨を覚え、帰国の途についたのであった。
Sep/2012