もしアメリカ嫌いの藕花先生がアメリカへ行ったら
最近、最高に驚いたことの一つは——と藕花(ぐうか)先生は考えた——巷で売れていて話題になっている(らしい)本が、最高につまらなかったことである。『1Q84』だって、内容は空疎で売れた理由はどう考えても連鎖買いだったろうけれども、それでも時間潰しには十分利用できたのに。
その話題になっている(らしい)書物とは、『もし高校野球のマネージャーが……』である。先生がこの本を手に取った理由の一つは、顧問をしている吹奏楽部の連中の不甲斐なさに常に頭を悩ませており、彼らにやる気を出させる何らかのヒントが得られるかもしれないと思ったからであり、もう一つは、そのついでに大学の授業の教材として使えるのではないかとの下心があったからである(先生は、読む前からその授業の副題をすでに決めていた。それは「もし本学の学生が『もし高校野球のマネージャーがドランカーの「マネジメント」を読んだら』を読んだら」というものである)。この本の粗筋は、ある都立高校の女子高生が二年生の夏休みに、「野球部を甲子園に連れていく」という妄想に取り憑かれ、唐突にマネージャーとなる。二〇数名いるのに五人しか練習に来ない部の現状に頭を悩ませたこの女子高生は、書店でドランカーの書物を偶然手に取り、そして勘違い甚だしく啓発されるという内容きである。この「二〇数名いるのに五人しか練習に来ない」という件など、藕花先生にはあまりにリアリティを持って感じられた。
ところがその点以外は、読み進めていってもなぜかまったくしっくり来ない。まず冒頭でドランカーの著作を全部読んでいるという野球部員が出てくる、というありえない設定。マルクスを地道に読み進めるとか、岩波文庫を片っ端から読み漁るというのが健全な学生像であった高校時代を過ごした先生には、これが作者による都合良すぎる設定なのか、現代の実状を反映しているのか判断できない。もしかしたら今の高校生はここまで来てしまったのだろうか。つまり教育そのものがアメリカ流のビジネス・マインドに汚染されており、ビジネス界でのし上がっていくための教育が称揚されているのだろうか。考えてみれば、ほとんどの日本人には明らかに不向きな「英会話」をあたかも必要不可欠なものであるかのように喧伝し、国策として小学校から教えるのもこの一つである(ただし上場企業の人事担当者アンケートでは「語学を重視」は3%)。藕花先生の学生時代には、大学での学問とは真理の探究であり、企業の論理に回収されることへの抵抗感が大学全体に漲っていたはずである。ところが昨今では「企業が求める学生像」なぞに大学がみずから飛びつき、それを信仰箇条であるかのように崇めたてる。学生にとっての「勉強」とは、労働市場のなかで自分を高く売るための「資格」やら「語学力」やらを可能な限りたくさん身にまとうことであり、大学は労働未経験者のためのハローワークと化し、結果企業の下請けに成り下がってしまった。しかし企業にとって都合の良い人材を育成することが大学の使命ではないだろう。むしろ企業の論理には絡み取られない人材、右を向けといったときに左を向いて、なぜ自分は左を向いたのかを説明できる人材を作りたい。藕花先生は常日ごろからかような考えを胸に秘めていたのであった。ところが実際には、教室のなかにまでビジネス・マインドを持ち込み、学生の成績や目標管理はおろか、教員の評定にまでビジネスの尺度を当てはめることで教育効率を高めようという発想が、先生の職場でも大手を振ってのさばっているというのが現状である。
藕花先生の憤りには同情しつつ話を戻すと、主人公がマネージャーになって最初の大会では、練習に一度もこなかった投手が先発し、七人連続押し出しでコールド負けする。しかし試合後のミーティングでの監督のひと言で全員が一つになり、そのことをきっかけに全員がまじめに練習するようになるという、これも藕花先生にとってはありえない展開である。確かにあることをきっかけに、ごく一部ががらりと変わることはある。また先生は、うまく育て上げれば、以前は目立たなかった学生が、部を引っ張っていくような存在に変身していく姿も見てきた。しかしこのような変化も長続きしないことが多く、試行錯誤のなかで失敗や成功を繰り返しながら進んでいくものである。
所詮ハウツー本のハウツー本なのだから、目くじらを立てるのはよそうと藕花先生はみずからに言い聞かせた。学校で、会社で自治体で、この本の内容を真に受けて、⑴我々にとっての顧客は誰か ⑵その顧客が求めているものは何か……などといったことを、本に書かれた順序通りに実践しようとしている、過程よりも結果だけが求められる哀しき人たちの姿を思い浮かべながら、先生は途中を一気に飛ばして最後のページを開き、そこにこのマネージャーの高校が並みいる強豪校を押さえて地区優勝し、甲子園への切符を掴むという、いかにも予想通りのあまりにご都合主義的結末を確認し、この物語との今生の別れを心に誓って書を閉じた。
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アメリカに行ったことは一度もないにも関わらずアメリカを嫌悪する藕花先生が、いかなる理由でかの国へ行くこととなったのか、その理由の詳細はここでは省くが、簡単に言えば渡米は研究費用を捻出する一つの方便であった。
昼間は一応図書館に通っていたものの、ホテルに戻ってくると、仕事におあつらえ向きの立派なデスクが部屋にありながら、先生はそれをひげ剃りのとき以外使うこともなく、夜なよなテレビを付けて、眠くなるまで無限にチャンネルを変え続けるのを滞米時の日課とした。そしてこのような夜更かしを続けること数日、先生はあることに気付いた。それは教育や企業経営のあり方だけでなく、日本の健康ブームも、テレビで偶然映った企業名などにやたらぼかしを入れることや、あるいはプレゼンを上手くやることがもてはやされるという風潮、これらすべてはアメリカの流儀をまねしているに過ぎない、ということである。テレビを付ければ健康食品のコマーシャル、ワイドショーでは専門家とおぼしき人物が、階段を使いなさいとか一つ手前の駅で降りて歩きなさいとかアドバイスする。番組では子どもの着ているTシャツにもぼかしが入り、そして説明する対象物の善し悪しよりもスピーチの上手さで競い合う。
先生の滞米中に、アカデミー賞の授賞式が催された。ここアメリカではそれは何日も前から宣伝され、終わってからもワイドショーでさんざん取り上げられる一大イベントであったが、一九七〇年代以降のハリウッド映画を、筑紫哲也氏に習って「作品」と呼ばず「製品」とカテゴライズしている先生にとってアカデミー賞の授賞式は、Big Brotherの優勝者を決めるイベントと同程度の浮かれ騒ぎにしか感じられなかった。とは言いながらも先生は、いつものようにホテルのベッドに寝転がりながら、惰性でこの授賞式を観ていた。むろんそこに登場する俳優たちも、名前に聞き覚えはあってもイギリス人俳優以外は見分けがつかず、司会を担当している女優も確かに美人とは映ったが、ただでさえでかい口をさらに際立たせるかのように真っ赤に塗りたくったその顔を見て、一昔前の「口裂け女」の起源は案外こんなところかもしれないと思ったりしたものである。
先生はその授賞式を観ていて、一つの大きな疑問を抱いた。それは、ハリウッド映画では100%家庭崩壊しているのに、各賞の受賞者はスピーチで「いつも支えてくれる愛する妻に感謝する」的な発言を120%することである。これは、映画と違って自分の家庭はアメリカの理想像を体現しているというアピールなのか、それともこのような発言をしなければ家庭崩壊するかもしれないという無意識の恐怖感の表れなのか、否、要するにこの手のプレゼンに必要なコードの一つに過ぎないのだろう。いずれにせよ授賞式を観た先生の結論は、これは映画をダシにしたファッションショーであり、豪華さやセレブとしての存在を見せつけ、競い合っているに過ぎない、というものである。授賞式の翌日には、誰はどんなドレスを着ていたとか、何回着替えたとか、そんなことが延々と取り上げられていた。
先生は映画は年間数十本観るものの、ハリウッド製品はほとんど観ないので、授賞式にもすぐに飽き、またチャンネルを次々と変えていった。すると既視感とともにプロレス中継が飛び込んできた。一昔前は日本の茶の間でお馴染みだったものの、格闘技の乱立する現在ではむしろ地味な感が否めない、昔ながらのオーソドックスなプロレスである。先生は懐かしさにとらわれ、つい見入ってしまった。リングではヒーロー役が勝つようにあまりに明白に互いの了解が成り立っており、こんなヤラセで熱狂できるアメリカ人が不思議であった。しかしそれより驚いたのは、試合よりもその前後のパフォーマンスのほうがはるかに長いことである。マイクパフォーマンスは日本でもおなじみだが、しかし日本とまったく異なるのは、試合前にヒーロー役レスラーが大画面に大写しにされ、延々と観衆を煽動し続けることである。内容は、翌日にはまったく記憶に残っていないという事実からするとおそらくよほど空疎なアジテーションであろうが、この煽動に観衆はいちいち反応し、熱狂するのである。
熱狂しやすい、というのがアメリカ人の一つの特徴である、と藕花先生は今回の滞米で悟った。実際先生の体験したところでは、こじんまりしたアットホームなコンサートから大ホールのコンサートまで、アメリカでは必ずスタンディング・オベーションとなる。あるときなど先生の隣のおやじは、「熟睡した」などと宣いながら満足そうにスタンディング・オベーションである。アカデミー賞での熱狂もこれと相通ずるものがある。そしてこの熱狂は芸術や娯楽のみならず、政治においても同様である。先生滞米中のニュースはどのチャンネルでもひたすらカダフィである。カダフィがいかに悪辣な専制君主であるかということを延々と述べ立てる。曰く、七〇何年のオリンピックでのテロの首謀者はカダフィであることを忘れるな、カダフィは生物兵器を使用したことがある、今回の反政府デモでも、無垢の市民を容赦なく空爆している、云々、いかにも煽動的なナレーション、現地リポート、元側近へのインタヴューなどなど。先生は、テレビを前に熱狂する善良なるアメリカ市民たちを思い浮かべた。しかし反米政権の要人を標的としたテロをたびたび起こしてきたのはどこの国だったのか、七〇年代に中東の独裁者に生物化学兵器を供与しておきながら、相手が気に入らなくなるとそのことを証言される前に急いで処刑してしまったのはどこの国だったのか、そしてテロとの戦いの名のもとに、中東やアジアの無辜の市民を未だに殺しつづけているのはどこの国なのか。アメリカの市民はそれを都合よく忘却できるのか、それともそもそも他国のことになど興味がないのか。実際のところは、すべて正義はわれわれが守っている、とハリウッド製品並みの善悪二元論で世界を眺めているに過ぎないのだろう。
結局アメリカ人にとっての美徳とは、強さを見せつけることである。それはマッチョ的腕力の強さであり、きらびやかな富の強さである。「勝つ」ということを行動の基本理念とし、ドリームを体現したものがヒーローとなり、それ以外のマジョリティ(いわゆる負け組)はヒーローに熱狂する。このアメリカ的価値観は、日本的価値観、つまり謙遜を美徳とし、力の誇示を恥とする文化とは正反対であり、日本的尺度から見れば、アメリカはかなり特殊な国である。そこには負けるが勝ちという発想もなければ、清貧の思想もなく、そして能がなくとも爪があるかのように振る舞わねばならない。アメリカの特殊性は、現代にも刻まれているこの国の歴史を考えてもすぐに分かる。歴史といってもたかだか四〇〇年かそこらであり、その歴史は浅い。先生がニューヨークで泊まったホテルの紹介文には、「当ホテルはニューヨークで最も古い歴史を持つホテルの一つで、特にこの電話番号はニューヨーク一古くから使われていることに誇りを持っている」旨書かれていたが、それでもまだ一〇〇年もたっていないのである。しかしその歴史は複雑である。約四〇〇年前に祖国から追い立てられたピューリタンたちがやって来て、元いた原住民たちを抹殺し、そして故国の一つであるイギリスと戦い独立を勝ち取り、その後南北で内戦を起こし互いに殺しあい、さらに祖国では暮らしていけない貧しいアイルランド人、政治的迫害を受けたユダヤ人、さらには中南米から次々と人々がやってきて、そのうえ黒人との深い軋轢をへて、現在に至る。先生とは英語で会話しながら仲間同士ではスペイン語や東欧系の言語で話すホテルの従業員や大学図書館の学芸員たち、ホテルの食堂でやたらへりくだる黒人従業員やニューヨークの地下鉄でやたら無愛想な黒人作業員たち、アイリッシュパブで知り合ったアイルランド系店員などに、この浅くとも複雑で特殊な歴史の痕跡を先生は見た。
アメリカ人とは、かなり特殊な集団である。様々に混じりあった異なる人たちが、富を、力を誇示し、それに喝采を送り、熱狂する。本来、性格も価値観も正反対のはずの日本人が、なぜその特殊な彼らのやっていることをありがたくまねし、崇めようとするのか——今日の日本人のメンタリティが藕花先生にはどうしても理解できない。この崇米の結果、勝ち組を讃えながら、本にしろ歌にしろ、スポーツ選手にしろ政治にしろ、皆が同じことに熱狂するという、アメリカ的マッチョ・メンタリティをこの国まで獲得するに至ってしまった。愛国者として先生は、帰りの飛行機のなか、このことに対する憤りでつい一人熱くなってしまい、キャビン・アテンダントに対して平静を装うのに苦労した……。
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そして、『もし高校野球のマネージャーが……』である。歴史、人種、メンタリティどれをとっても特殊なアメリカのやり方を崇拝し、ありがたく取り入れることの不自然さをはっきりと確信した藕花先生にとっては、ドランカーのマネジメント理論をもとに、人間集団の管理にまでアメリカ流を取り入れようとするこの書物がかくももてはやされる現象は、今日の日本の崇米思想を象徴する事象の一つに他ならない。巷の風潮に習い、アメリカの大学の制度が盲目的に崇拝され、導入されていく日本の教育界の現状に対しても、藕花先生は更なる危機感を抱くに至った。現在進行しつつあるこの教育のアメリカ化と断固戦うという崇高なる考えを胸に、このようなトンデモ本の売り上げに貢献しなかったことに安堵しつつ、先生はその書物を図書館に返却した。
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藕花先生は、ドランカーなる人物がオーストリア人であることを、不覚にも知らなかった。
Mar/2011
追記——今年から野球中継でもアメリカをまねて「ボール、ストライク」の順にカウントを表現するようになった。件の書物も『もし高校ベースボールのマネージャーが……』とタイトルを変更すべきであろう。