藕花先生、イギリスに帰る
藕花(ぐうか)先生は、イギリスの不合理な交通運賃制度に対して、全く信を置いていない。その発端は、学生時代に初めてイギリスを訪れた時にさかのぼる。貧乏旅行をしていた先生は、長距離バスの切符を買うべく切符売り場のおばちゃんと交渉していて、当日のみ有効の往復切符のほうが片道切符よりも安いということを知ったのである。先生は「急に予定が変わった、今日行って帰ってくる」と主張し、「嘘言うな」という切符売りのおばちゃんとの応酬になったが、最後はなんとか最安値の切符を手に入れた。もちろん片道分しか使わなかったことは言うまでもない。
その後多くの歳月が流れ、今から四、五年前になるが、学会で久しぶりにイギリスの地を踏んだ藕花先生が直面した、地下鉄の料金設定もまたこのことを裏書きするものであった。先生が放浪、そして修行していた頃とは異なり、地下鉄料金は距離にかかわらず統一料金となり、遠くても一区間でも、当時のレートで千円近くするという、大変合理的、否、不条理な料金設定となっていたのである。ただしこの不条理を回避する方法があって、それは「オイスターカード」と呼ばれる、不条理に不条理を上塗りするようなカードを入手することである。
このカードは、初めにいくらかの金額を五ポンドの保証金とともにチャージし使うのであるが、このカードを利用すると一回の運賃が半額近い金額になり、しかも一日である一定の額を超えると、もうそれ以上は課金されない。一見とても良い制度のように見える。しかし藕花先生は、この制度に対する不信感を当初から抱かずにはいられなかった。先生は学会以外はほとんど大英図書館の閲覧室にこもっていて、移動するといえば晩にコンサートに出かけるくらいであるから、オイスターカードが規約通りに課金されているのであれば、長持ちするはずなのである。にもかかわらず、数日で料金が足りなくなり、補わねばならなくなる。前回も、後はヒースローまで行って飛行機に乗るだけ、という段になって料金が足りない、ということになり、不必要に余分な額までチャージする必要に迫られた。
こんな様子であるから、今回の滞在でオイスターカードを使うべきか、それともチャージの必要のない乗り放題のカードを購入すべきか迷ったが、大して交通機関に乗るワケでもない先生は、一抹の不信を抱きながらも、前回のカードを再利用したのであった。
しかし、不安は最初から的中した。前回チャージした残りがかなり余っているはずにもかかわらず、残高を見てみると「1ポンド」と出る。全く持って不可解であるが、半ば予期していたことでもあるため諦めの境地で二〇ポンドほどチャージしてもう一度残高を確認すると、今度は「一九ポンド」と出る。では先ほどの一ポンドというのは残高ではなく、「一ポンド引くぞ」ということだったのか。長旅の後にいちいち細かい説明まで読む気のおこらなかった藕花先生は、完全にしてやられたと思った。
その後やはり金額の減りが激しい。残高の画面から履歴を見ることができることが分かったので確認してみると、やはり明らかにおかしいところがある。このことを窓口で伝えると、どういう根拠か分からないが「一・七ポンド返してやる」となった。ついでに数年前に一〇何ポンド残りがあったハズだがそれが綺麗さっぱり無くなっている、というと、「そんなこと聞いたことない」となり、先生はしばらく粘ったが「ここでは完全な過去の履歴は分からないから、しかるべきところへ聞け」と、「しかるべきところ」がどこかもろくろく教えずに、窓口が閉められてしまったのである。このことに限らずイギリスでは何でもそうだが、約束通りことが実行されているかどうかは本人がしっかり確認し、おかしいところがあれば自分から主張せねば、結局は自分が損するだけのことなのである。
またある駅では自動販売機で買えた切符が、別の駅では自動販売機のどの画面を探しても見つからない、ということがある。仕方なく窓口に並ぶが、いつもながらこれだけのことでずいぶん待たされる。窓口では外国人旅行者がオイスターカードをかざしながら食い下がっていたから、やはりオイスターカードをめぐる不条理は自分だけではないのだと藕花先生は納得した
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イギリスでは何をするにも列を作って待たねばならぬことは、周知のことである。駅では多くの人が列を作って順番を待っているのに、窓口の多くは無人のままで、少ない職員がのんびりと対応している。職員自体はそこら中にいるのに、配置なりを工夫し、能率を上げようという雰囲気は毛頭感じられない。藕花先生の故国では、過酷な労働条件と低賃金が昨今話題であるためか、ここイギリスに来て労働者の働きぶりのコントラストが一層目に付いた。大英図書館でも様子は同じである。閲覧室に入るには、中身の見える透明の袋に必要なものを入れ、かつ図書館カードを提示しないと入室できない。部屋の入り口の前の椅子にはたいてい二人の職員が陣取っているが、常におしゃべりをしていて、入館時にもカードに一瞥をくれ「OK」と一こと言うだけである。退出時もビニール袋の中身をあらためてもらわねばならぬことになっているが、これも袋に一瞥をくれるだけ、貴重な文献を持ち出そうと思えば容易に可能であろう。図書館でも、地下鉄の駅でも空港でも、目につくところはどこでも、二人いればおしゃべりし、一人ならばあくびしているイギリス人の姿である。藕花先生はいつも大英図書館のニューズレターにお義理で目を通しているが、この状態でしょっちゅうストライキだと息巻いている図書館員たちが微笑ましい。一方藕花先生の故国では、労働者階級の人々は朝早くから晩遅くまでろくろく休みも取らず働かされ、また中産階級の人々は、仕事に一生を費やすことが美しいことであるかのような某国営放送の「ぷろじぇくと何タラ」史観に刺戟され、自分に酔いしれながら働く。何かに取り憑かれていることは間違いない。こう考えながら、先生は閲覧室に持って入れぬ鞄やコートをロッカーに預けるために右に曲がる。一方左に曲がるレばクロークルームがあり、係の人にカバンとコートを預けることもできる。なぜわざわざロッカールームとクロークルームを併設するのか、これもまた英国流の不合理の一つである。
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運賃制度をめぐる不条理は、他にもある。イギリスでは平日はラッシュアワー時とそれ以外の時間帯では料金が異なる。それ自体は問題ないのだが、ではいったいいつがその時間帯にあたるのか、というと、それがよく分からない。ロンドン交通局の公式ホームページでは、それは朝と夕方の一日二回に設定されている。ところが駅の案内では、朝だけになっている。ロンドン交通局の公式ホームページでは、「一〇歳以下の子供が親と同伴で交通機関に乗る時は切符はいらないが、一一歳からは大人料金である」となっているが、駅で切符を買うときに「一一歳も大人料金か」と聞くと、「子供料金だよ」と笑われる。バスに乗るときにオイスターカードを持っていなければ、乗車前にバス停の自動販売機で切符を買っておかなければならない。その券売機はおつりが出ない。その券売機には発券ボタンが二つあり、お金を入れると「必要なほうのボタンを押せ」との表示が出るが、二つのボタンの片方には、「このボタンは現在は使われていない」と書かれている。
週末は図書館も閉まるので、藕花先生はレンタカーを借り流手はずになっていた。日本ですらレンタカーなど借りたこともないので勝手が全く分からなかったが、日本の旅行代理店で扱っていることが分かったので、渡英前に結構な額を前払いし、段取りはついていたハズだった。しかし藕花先生は油断していなかった。ナビも予約したのに「あ、今ありませんね~」とか、「その車今貸しちゃったんですよ。もう少し早く来てくれれば」といった程度のことは十分起こりうると考えていた。藕花先生の予感は的中する。「アウディに乗ったことはあるか。今キャンペーンで安くしておくからアップグレードしろ。ナビに五〇ポンドかかるが、アウディならナビは付いてるからナビ代はいらない、アウディが九〇ポンドだから、ナビ代を考えればプラス四〇ポンドでアウディだぞ、アウディ、アウディ」と迫る。こちらは車になど何の興味もなく、「アウディ」などといわれても、スペインの建築家かインドの独立指導者かという程度の認識で、高級車の製造会社であるということも今回初めて知った次第である。「安いほうで良い」と三度も行ったが、「ガウディ、ガウディ」と迫られ、「ガンディなぞ借りない」と言って店を後にするそぶりを見せぬ限り折れない様子であった。先生は、タイでトゥクトゥクの料金交渉しているかの如く錯覚に陥った。結局騙されたような気分でアウディを運転したが、側面とホイールに擦りキズをつけて返したので、先生はお互いさまだと思っている。
このように藕花先生は、英国の不合理を散々味わい尽くしたのであるが、これでは終わらなかった。もうオイスターカードを次回の渡英のために手元に取っておく気もなくなった先生は、帰国の際、地下鉄ヒースロー駅で払い戻しをした。チャージの残額と五ポンドの保証金が戻ってくるはずである。結果は、残額の五・五ポンドはクレジットカードに返金、保証金三ポンドは現金で返金という——なぜわざわざ返金法を変えねばならぬのか、そして保証金は五ポンドのはずだ——藕花先生はもはや疑問を呈する気すらおこらず、帰国の途についたのであった。
Feb/2012