藕花先生、著書を出版する


 藕花先生は、本を出版したことがなかった。厳密に言えば、出版したことは何度もあるのだが、それらは依頼されて一章か二章を執筆したもので、表紙に自分の名前が載ったものは翻訳を除いてまだなかった。社会的圧力から、先生はこれまで書いたものを一つの大きな論文として纏めようという心積もりもあったが、しかしそれを特に強く望んでいたわけでもない。むしろ先生は、その論文が完成した暁には、それを著書として出版することを密かな野望としていた。
 というわけで、藕花先生は学生時代に親交があったがそれ以後まったくの無沙汰であったE先生に半ば憂鬱な気持ちになりながらも連絡を取り、論文の企図について話し、実際に読んでもらい、「三か所書き直す」という条件で論文提出の承諾を得た。藕花先生としては、その修正により論文が改善されるか定かではなかったが、主査の要請であれば致し方ない。副査については、海外研修中であるE先生の同僚に依頼する意向であるとのお達しであった。藕花先生は論文の修正を施し、その後E先生と何度かお会いし、修正稿について議論した。
 しかし、である。副査の先生が帰国したと思われるタイミングでE先生と連絡を取ろうとしたものの、連絡が取れない。大学のホームページを確認したところ、どうも退職されたようである。E先生は「辞める前に後輩のために力になりたい」などと言っていたものの、このような結末もありなんと藕花先生が漠然と抱いていた悪い予感通りとなった。結局、この大学で得たものは妻と出会えたことだけだ、とどこかの作家が言っていたのと同じような迷妄を、他人に吹聴することもなく藕花先生は内心抱いている。
 どのみち論文を提出し社会的ステータスを上げることに執着はなかったのであり、藕花先生はその原稿を本として出版するという野望にすぐに切替えたものの、コロナ対応のごたごたを言い訳に何もせず数年間を過ごした。出版するにはまず出版社に売り込まねばならぬのだが、コロナ禍というこれ以上ない言い訳の前に、腰が上がらなかったのである。そして先生はさらに先延ばしする言い訳を考えついた。それは、出版社に口を利いてくれそうな大物学者に国際学会で声を掛けてみる、というものである。これで国際学会まで何もする必要が無くなった。
 コロナ以後久々の海外渡航であった当の国際学会では、出版を相談するのに適任としてあるアメリカ人学者に目をつけた。しかし相手にとって何の利もない個人的要望はなかなか切り出せないものである。ずるずると最終日まで来てしまったが、オージア・ジョキーフ美術館でたまたま例の大物と二人だけで椅子に座って話す機会が巡ってきた。千載一遇のチャンスとばかりに藕花先生は思い切って尋ねたが、期待は見事に裏切られた。その大物が言うには、自分はその質問に答えるのに適任ではない、なぜならこの前の本を出すときはなかなか出版社が見つからず苦労したからだ、というものであった。これ以上引き伸ばす口実もなくなり、藕花先生は引導を渡された形となった。
 国際学会から帰国後半年以上経ってやっと藕花先生は動き出した。先生は前回の期待外れに懲りずやはり安易な方法に一縷の望みを抱いており、それは以前共著書を出版したBloomsberryの編集者が自分のことを覚えてくれていて、今度の単著の出版も引き受けてはくれまいかというものだった。自分が担当した章の評判が良かったと聞いていたが故の浅はかな望みであったが、その程度のものに縋るしかなかったのである。
 とはいえいきなり本命に行くのも心もとない。練習も兼ねてまずはRoutrichにオファーを出してみた。するとすぐに編集者から返信があり、当社のガイドラインに則って企画書を送れという。藕花先生はそのガイドラインを見てすぐに憂鬱な気持ちになった。それは全体で2、30ページもあり、さらに各項目の中に「詳しくはここを見よ」とリンクがあり、それが各々さらに10ページ以上続く。要求されている項目は

・貴君の本全体の趣旨を3から4段落で述べよ
・貴君の本全体の要旨を1段落で纏めよ
・貴君の本の、全ての章の内容を章ごとにそれぞれ1段落で纏めよ
・貴君の本を買うことが見込まれるのはどのような読者層か書け(ただし一般読者と大学生と研究者全てにアピールする本などほとんどないことに留意せよ)
・大学生が読む場合、どのようなレベルの学生か(学部の下級生/上級生/大学院生/……)
・貴君の本を買うことが見込まれる読者層が読んでいると思われるジャーナルを列挙せよ
・貴君の本と競合すると思われる研究書を列挙し、それらと貴君の本のそれぞれの長所を対比しながら論述せよ

               〈以下延々と続く……〉


といった具合である。藕花先生はガイドラインを最初から律義に読み始めたものの、まともに従っていては企画書など永遠に書けないと悟り、逆に大枠だけ掴んで作成に取りかかろうと腹を括った。

                     *  *  *

 企画書の作成は難航を極めた。なぜなら藕花先生は根本的にこの種の作業に向いていないからである。つまり企画書とは、自分の書物がいかに優れているかという熱烈なアピールである。アメリカ人などはこの種の作業を嬉々として行うのであろうというのは藕花先生の偏見であるが、自分の書いたものを面白いと思う少数の読者が手に取って満足してくれればそれで良いと考えている先生にはそのようなアピールは苦行でしかない。その上、出版社が重視しているものはアカデミズムへの貢献よりもむしろ売れるかどうかである、ということがガイドラインに随所に滲み出ているという点も藕花先生には大いに気に入らなかった。欧米の老舗の出版社ですら使命感ではなく商業主義に堕してしまっているのか。しかしRoutrichへの企画書はあくまで練習でしかないと考えている先生は、企画を却下されて次々と他の出版社に売り込むことになった暁にも、一度これだけのものを作成しておけば使い回しができるだろうと割り切って勤行に耐えた。
 勤務校での度重なる会議によって中断されながらも春休みの丸々2か月を使って作成された企画書は、4月の頭にRoutrichの編集者へと送られた。結果は分かり次第連絡するとの返事であった。前期の講義も始まり多忙な日々を送る藕花先生は提出した企画書のことを半ば忘れていたし、そもそも分不相応な期待は抱いていなかったのであるが、しかし4か月近く経っても何の音沙汰もないという事実を前に先生は半ば諦めの境地に至りつつあった。やはりRoutrichから色よい返事など来るはずがない、夏休みに入ったらいよいよBloomsberryに企画書を送ろうと考えていた矢先、返事が届いた。是非我が社から出したいが、まだその気はあるか? との内容であった。藕花先生は喜びよりも半信半疑で返信を返すと、「次の火曜日に編集者一同が会する定例の会議があり、そこで提案して最終決定したいから、企画書に付された審査員の意見に対するレスポンスを数段落、3日以内に書いてよこせ」と言う。藕花先生の提出した企画書も論文1本分の長さになろうかという代物だったが、明らかに研究者とおぼしき者が書いたと思われる、それぞれ5から6ページに及ぶ意見書が2通付いている。これに対するレスポンス次第で最終決定、しかもそれを3日以内に、ということで、藕花先生は講義そっちのけでこれに取り組んだ。
 先生の企画書に対する意見書は2件。意見書Aは、近年の研究動向などを踏まえながら先生の本を評し、「この研究書はぜひ出版すべきだ」という内容であった。もう一方の意見書Bは、「まあ出版しても良いが他の研究書と比べて特に精彩を放つものではない」という内容であった。しかしこの後者の意見書は全体的に揚げ足取りの指摘が多く、さしもの藕花先生もこれらの指摘には全て反論できると珍しく強気に構え、また編集者もこの意見書Bには重きを置いていない気配が感じられた。ただ意見書Aは非常に好意的であるとはいえ、主に3点の指摘があった。1つは、この本で論じられているのは長編小説と短編小説のみであるが、詩や戯曲も入れろ、というものである。いや、「入れろ」とは書かれていない。「入れることを検討せよ」とある。しかしもちろん出版してもらわねばならぬから、この指摘へのレスポンスとして「注で論じていた詩を本文に持ってきて論じるし、そこで○○の詩も同時に論じられるし、また戯曲もこの前の学会発表で取り上げたから本文に組み込むことができる!」と全て飲んだ。2つ目の要求は、この研究書は、先人のA氏やB氏の流れを汲むものであろうから、序章で両氏の研究書に特に言及し、本書がこれらとどのように異なり、そしてどのように乗り越えているのかを論じろ、というものである。しかしこの両書、一方はマルクス主義的読解の代表格、もう一方は近現代の思想を軸に新境地を開いたもの、どちらも研究者なら知らぬ者はない研究書である。論の展開の一助にするのならともかく、「乗り越える」など恐れ多くも藕花先生の度量ではない。先生自身も他人の論文の査読を何度も経験済みで身に覚えがあるが、評者は平気で無理難題を言ってくるものである。そして3つ目の指摘は、注の整備である。論文を書いてしまってから先行研究に目を通し、辻褄を合わせることが得意な藕花先生には、耳の痛い指摘である。出版社へ送ったレスポンスでは、意見書Bの要求は適当に捌きながら、Aの3点を中心に意欲的に修正する素振りを大いに示した。
 するとすぐに返事があり、出版が正式決定した、ついては契約を交わしたいが契約書はこのような内容で良いか、と最大語数、挿絵の数、最終締切日などの案を連絡してきた。最終締切が2か月後の「9月末」となっていたのは、意見書へのレスポンスで「2か月で修正できる」と藕花先生が見得を切ったためである。しかし弱気になった先生は、「この締切、もし守れなかった場合はどないなりますの?」と聞いてみると、「我々は締切は絶対的なものと考えている」との文言に加え、「なんなら1か月伸ばしてもかめへんで」との返事。先生は藁にも縋る思いでその提案に飛びついた。
 そこから契約書が送られてきて、できるだけ早くサインして送り返せと言う。先生は以前、Bloomsberryで1章を担当したときに契約書を交わしているので驚かなかったが、相変わらずありとあらゆるケースに対処することを想定した何ページにも及ぶ契約書である。Bloomsberryの時には、自分が書いた章より契約書の方が長いのではないかと訝《いぶか》るほどの代物であった。今回と前回との違いは、今回は何ページにもわたる契約書に続いて、印税を振込むための銀行口座の情報を提供するためのフォームが付いている。半信半疑のまま突き進んできた藕花先生は、一抹の疑念を感じざるを得なかった。「出版可」との連絡が来てからここまで、怒濤の流れである。これは新手の「出す出す詐欺」ではないのか。出版直前になって「出版するから1万ドル送れ」などと言われ、よくよく見たらRoutrichではなくBoutrichであった、などということになりはしまいか。藕花先生は契約書やメールの出版社名やそのロゴを何度も確認した。そしてその道の研究者でなければ作成できないであろうあのような詳細な2通の意見書は、いくら生成AIを活用したところで捏造できないだろうと考え、ひとまずRoutrichを信用することにし、契約書にサインした。出版が決まるまではニューヨーク在住の編集者とやり取りをしていたが、契約後は担当の編集者が代わるということで、イギリスのオクスフォードから連絡が来た。詐欺グループであればかなりグローバルな一味である。藕花先生は夏休みを丸々使って、原稿の修正に全力を挙げることとなった。

                     *  *  *

 藕花先生は普段から、自分は目の前にぶら下がったチャンスを決して逃さない、という根拠のない自信を抱いていた。今回も何とかなるはずだとの信念を心の底で抱いていたものの、しかし与えられた期限内に修正できるかどうかの目処はまったく立っていなかった。契約するまでは半信半疑であったが、実際に契約してみるとその心持ちは大きく変化した。いざ書きだそうと机に向かうと、最先端を行く研究者たちの顔が藕花先生の頭に浮かび上がり、その面々が自分の本を評したらここを衝かれる、あそこを衝かれる、との思いが先行し、期限までに書き上げねばならぬというプレッシャーと相まって筆が進まなくなるのである。また取り上げた書物のべた褒めに終始する日本の書評に新聞で接すると、自分の本はその点ができてない、ここもできてないと不安が増幅する。藕花先生は書き上げるまで新聞の書評欄が視界に入らないようにした。
 これに加えて、写真やイラストの版権の取得も大きなプレッシャーとなった。自分が使う写真やイラストの版権は自分で取らなければならない。Routrichの説明には「版権取得のプロセスには多大な時間と労力を要する場合があるので、できるだけすみやかに着手すべし」とある。藕花先生は版権の取得はBloomsberryの時に経験済みだが、その時に比べてもRoutrichはやけに厳格である。『キック』[注]のイラストを使用した際、Bloomsberryの編集者は「版権取らんでも良いんじゃ?」という反応だったが、Routrichは「その点は微妙なので先方に確認してほしい」という。しかしキック社に確認すれば当然「金払え」ということになるであろう。藕花先生は自分の大学の図書館司書に相談してみた。すると版権に関してはグレイゾーンが多く、『キック』のイラストは版権フリーのサイトにも掲載されているものの、それはあくまでサイト制作者側の主張であり、その点に関する見解の違いはしばしば係争の原因となっているという。出版のためにはどんな媚も辞さない藕花先生は、Bloomsberryでは無料で使ったイラストに今回は著作権料を支払った。またケイト・ギャラリー所蔵の絵画に関しては、一旦はそのHPから著作権料を支払ったものの、Routrichの説明文を見直すと「
書籍と電子本の両方の版権を取ること」と太字で書いてある。確認すると先生は書籍の方しか取っていない。通常の欧米の仕事ぶりであればその辺りは事も無げに見逃してもらえることを藕花先生は知っているが、版権にやたら厳しい出版社を前に、出版のため下手《したて》に出る先生は、同時に取得すれば割安で済んだ電子本の著作権料も今回ばかりは追加で支払った。一方で国立や大学付属の資料館は、アカデミックな書物との事情を鑑み、使用料無しでの掲載を許可してくれた。

[注]「キック&ジュリー」に端を発するイギリスのジャーナル。正式名称『キック、またはドンドンシャベリナ』

 しかし版権に関する一番の問題は、引用する作品に関してである。藕花先生は、引用するブンガク作品に著作権料を支払うということは毛頭考えたことがなかった。しかしRoutrichの編集者によると、藕花先生が多く引用している作家の作品に関して、イギリスでは完全に著作権フリーであるが、アメリカでは1927年以降の作品は著作権で保護されており、全世界での販売が企図されている藕花先生の本も厳しい方の基準に合わせる必要があるという。先の図書館司書によると、アメリカでこのような事態になっているのは某ネズミ会社の画策が関係しているのではないかとのことであった。最近のいくつかの研究書を確認してみると、確かに引用のための版権を取得しているものもある。版権が必要になるのは一つの作品から連続で400語以上、または合計で800語以上ということで、大ざっぱにカウントしてみるといくつかの作品はそれを超えている。版権を取得していた研究書の著者の一人であった友人に聞いてみると、彼は「出版に多大な経費がかかること、印税は一切無いこと、学生で金が無いこと」などを力説したところ、著作権料は無しで版権を取得できたという。藕花先生はこの朗報に勇気づけられた。しかし先生の場合、出版経費は出版社持ち(Boutrichでなければ)、印税についても契約書に事細かに記載されていた(「ハードカバー1冊売れるごとに○%、ペーパーバック○%、学校がテキストとして採用した場合○%……」)ためこの点には触れず、自分の本がアカデミックなものであり、商業的流通を目的としたものでないことを力説した。しかし先の友人の時と異なり新たな巨大版権仲介業者に成長していたそのエージェントは藕花先生に200ポンドを要求し、先生はやむなくこの強欲な要求を飲んだ。今にして思えば、800語は超えていない、と素知らぬ振りを決め込むこともできたであろう。何事も経験してみないと分からないものである。
 さらに藕花先生の頭を悩ませたものがエピグラフである。藕花先生は、各章の冒頭に気の利いた(時に独り善がりで意図の不明確な)エピグラフを配置していた。ところがエピグラフはすべて取るようにとのRoutrichからのお達しである。編集者に確認してみると、エピグラフは版権フリーの対象外なので、ということであった。藕花先生は落胆した。分かる人には分かる、ついくすっと笑ってしまうエピグラフがこの研究書に情趣を添えると自負していたのである。図書館の司書に相談してみても、エピグラフに掲載してもらうことは本来であれば名誉的な扱いであるし、著作権フリーの対象外であるといったことも聞いたことがないという。そこで藕花先生もこればかりはおいそれと引き下がることはできなかった。エピグラフとして使用することを考えていた過去のブンガク作品に関しては、著作権の持ち主とおぼしき諸エージェントに訴え出ると、掲載を認めてもらえたり、そもそも著作権は切れているから問題ないという返事であった。上村冬樹に関して日本のエージェントに確認すると、英訳に関しては当方では関知していない、と紹介された海外のエージェントに問い合わせ、あっさりと許可をもらえた。問題はイギリス公共放送である。藕花先生は、CCBの有名なコメディ、『ブロックエイダー』の第4作、第一次大戦期を舞台にした『ブロックエイダーが行く』の中の一場面の台詞をエピグラフとして引用していた。先生は放送局のHPから問い合わせてみたが、督促したにも関わらず返事が来るのに2か月を要し、かつ『ブロックエイダー』に関わった監督、脚本家等々の膨大な連絡先を送ってきた。さしもの藕花先生もこれには音を上げた。結局Routrichには、「エピグラフについてもちゃんと許可を取ったぞ、文句あるか」と証拠資料を送ったところ、許可を得たものについては特にお咎めもなく無事掲載された。
 期限までに原稿が完成するのか? 必要な版権が本当に取得できるのか? という不安を抱えながら執筆と版権取得の作業を同時並行するというプレッシャーに苛まれた藕花先生は、本来は夜更かし大好きで朝は苦手なのであるが、緊張の余り毎朝6、7時台、時には5時台に目が覚めてしまい、体重も数十年前のレベルに近づこうかというまでに減少していったのであった。

                     *  *  *

 藕花先生は如何にしてこの難局を乗り切ったか? 頭に次々と去来する一流の学者たちの批判にまともに対処しようとしていてはいつまでも出版できまい。またこの分野での権威的な研究書を「乗り越える」ことなど到底できまい。さらに完成された(と藕花先生が自負する)一連の議論の中に詩や戯曲の分析を、論述の流れを損なわずに入れ込むことなど数か月でできようはずがない。藕花先生はどのように頭を切替えたのか自分でも定かではないが、一つには最後には何とかなるとの根拠のない楽観主義が功を奏したのかもしれない。またその存在は知っていたものの大して話題にもならず参照すらしていなかった研究書が同じRoutrichからであったことを知り、この出版社から出したとてほとんど耳目を惹かずに消えていく研究書があることに安心したためかもしれない。ともかく藕花先生は頭を切替え、論の不備を鋭く見抜く一流の研究者たちとまともに対峙するなどという分不相応な考えはあっさり捨て去り、読者の7割が楽しんでくれればそれで良いとの心持ちに至り、執筆を続けることができた。このように都合よく無我の境地に至ることこそ藕花先生の真骨頂である。さらに研究費の申請や活動報告などのブルシットジョブで発揮される、さっと読んだ人たちが何となく納得させられてしまう文章作りは先生お手の物である。2か月で概ね完成させ、最後のひと月で細部を詰めるということで、締切を1か月延ばしたことも功を奏し、秋には無事入稿を果たした。
 すると程なくして、担当がオクスフォードの編集者から印刷担当のアシスタントへと代わった。メールに記載された住所を確認してみると、今度はインドからである。すでに彼女らが世界を股にかける詐欺グループではないことを確信していた藕花先生は、むしろ今では自分がこのようなグローバルな出版社とやり取りしていることに密かに自尊心をくすぐられていた。これまで担当してもらったアメリカとイギリスの編集者たちとは、1、2度メールのやり取りをすればすぐにお互いファーストネームで呼びあう仲となったが、今回は違った。先生はすぐにこのインド人アシスタントに対してファーストネームで呼びかけたが、しかし彼女は結局最後まで「親愛なる藕花教授へ」でメールを始めることを止めなかった。藕花先生はアジアの歴史と伝統の重み、そしてアジア人の奥ゆかしい慎み深さを再確認することとなった。彼女らが詐欺グループの一味でなかったことは誠に幸いである。出版後、自分の本の売り上げを伸ばすためのインストラクションや販売促進活動を促すメールが出版社からたびたび送られてきているが、藕花先生は泰然自若としてそれらを受け流している。

Aug/2024