日本の常識と世界の常識のはざまで——コロナ禍ニューメキシコ探訪記


 コロナ・パンデミックが発生してから2年半、その間県境を超えたのも2度しかなく、しかし出不精の藕花先生はむしろ家から出ずに済むのをありがたく思っていたくらいである。このように安逸に過ごしていたさなか、急遽渡米することとなった。いや急遽というわけではない。2020年開催予定で2度延期された学会が22年の今年、対面で開催されることとなったのだが、先生はあまり乗り気ではなく、出欠の判断をタイムリミットぎりぎりまで保留していたという次第である。参加を躊躇していた理由は、まず開催場所がアメリカはニューメキシコ州のタオス、かつてアーティストたちのコロニーであった場所で、空港のあるアルバカーキから公共交通機関はなく、学会手配のシャトルバスで半日かけてやっと到達するという、平時でも二の足を踏むような辺鄙な場所での開催という点である。また学会に参加するというのは単に観光に行くのとは違い、それなりの準備と心構えが必要になる。国際学会に行くともなれば意識せずとも心のどこかでプレッシャーを感じ、腰が痛くなったり何となく熱っぽくなったりお尻から血が出たりと身体のどこかに不調をきたすものだ。日程的にも本務校の講義期間中であり、「補講」をおこなったフリをしなければならない。さらにその上コロナ禍に国外に行くとなれば感染の不安以外にも、これまでとは異なる様々な準備——ワクチン接種証明、陰性証明、出入国時の誓約書、大学に出す書類等々——が必要となる。
 今回の渡米での最大の懸案事項は、日本帰国時に必要となる陰性証明である。アメリカ出国前72時間以内のコロナ検査による陰性証明がなければ日本に再入国できないのだが、日本政府は有効な検査と無効な検査とをほとんど偏執狂的に事細かく分類しており、かつ必要とされる8項目がすべて記載された証明書でないと受け付けないという。在アメリカ日本大使館のHPには、そのような検査をし証明書を発行してくれる医療機関がリストアップされているが、記載されているのはニューヨークやロサンゼルスなど都会の医療施設だけで、「ニューメキシコ州」の欄すらない。その陰性証明がなければ日本に向かう飛行機にまず乗せてもらえないということである。出発前にアルバカーキおよびタオス近辺でコロナ検査ができそうな施設を藕花先生はネットでリサーチしたが、それらの施設のHPを見ただけでは日本政府が事細かに定める検査を受けられるのかまったく判断がつかない。いくつかの施設に、日本政府の出している有効/無効のリストとともに質問のメールを送るが、半ば予想通り無視されるか「HPを見よ」との適当な返事が返ってくるだけである。学会側とも何度もやり取りし、先方もそれなりに手を尽くしてくれてはいるものの、「タオスで検査するには現地の医師の紹介がないとできないらしい」などとますます混沌としてくる始末。今にして思えばこれだけの否定的要因がありながら出不精の藕花先生が参加に踏み切ったのがむしろ不思議なくらいである。結局帰国の検査のメドの立たぬまま、渡米は完全な見切り発車となった。
 

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 藕花先生は、大阪—東京—ロサンゼルスを経て夕方6時にアルバカーキに到着した。華氏100度という着陸時のアナウンスにさほど気を留めずに空港から外へ出てのけ反った。殺人的に暑い。いや熱い。後で分かったが華氏100度とは摂氏38度らしい。先生はスーツケースをずるずる引きずりながらほうほうの体で何とかホテルに到着した。
 アメリカ到着後の最初の仕事は、まず医療施設に出向いて有効な検査が受けられるか聞いて回ることであった。そこで藕花先生はアメリカ到着の翌朝、真っ先に再び空港に出向き、空港内に設置された検査ブースへと向かった。それにしてもここアメリカでは、マスクをしている者などどこにもいない。一般の人はもちろん、ホテルや食堂のスタッフですらマスクなどする気はまったくないらしい。空港内の検査ブースに行くと、そのスタッフすらマスクもせずに2人してちょこんと受付に座っている。丸顔で坊主頭のスタッフに有効と無効の表を見せ、ここで有効な検査が受けられるかと聞くと、表をろくに見もせずに「この検査なら大丈夫だ」とパンフレットを示しながら言う。見ると結果が得られるまでに要する時間の違いにより100ドルずつ値段が上がってき、一番速い「エクスプレス」は280ドルである。さらに必要項目のリストを見せて、証明書にこれらがすべて記載されるかと確認すると、そのリストをさささーっと見て、信じて良いのか否か判断のつきかねる気軽さで「ノー・プロブレム」と言う。こちらとしては一応信じるしかない。そもそも空港での検査はタオスでできなかった場合の最終手段であり、さらにその場合、学会を早めに切り上げて何らかの手段でアルバカーキまで戻ってこなければならない。本当に有効な検査なのか、そして証明書に必要事項がすべて記載されるのか、藕花先生はこの2人のスタッフを完全には信用できずにいたが、それでも感染さえしなければ出国できそうなめどが一応は立ち、ほっと胸をなで下ろした。
 アルバカーキでの最大の仕事は済み、その日は残りほぼ丸一日空いてはいたものの、ヘタに歩き回ったら倒れるのではないかという熱さである。藕花先生は3時間だけ出かけることにして、街中への交通手段を調べた。グーグルの地図で調べると乗るべきバスが示されるが、運賃が「無料」と出る。これは一体どういうことなのか、先生はネットで検索してみて知った、このアルバカーキでは、先月から試験的に市バスがすべて無料になったそうだ。ヨーロッパの市バスであれば例えば通勤時間帯以外は無料とか週末は無料とかいう都市もあるが、新自由主義の権化ともいうべきここアメリカで、公共交通機関が無料というのは全くの予期せぬ事態である。翻って先生の住む街では、新自由主義を押し進める「違心の隗」なる団体の県知事が就任した途端に市バスの時刻表には「100円の収入を得るのにいくらかかるか」が下品にも表示されるようになり、また足しげく通っていたアートヴィレッジセンターに至っては、先生のメンバーシップの期間がまだ半年以上残っているにも関わらず、「有識者会議による施設の見直し」という名目で潰されてしまった。相も変わらず勘違いしたオジサンたちが牛耳る日本の世界の常識からのずれぶりを、藕花先生は図らずもアルバカーキで再認識することとなった。
 藕花先生はとりあえず無料の市バスでダウンタウンへと向かった。バス停にいたおじさんにダウンタウン行きのバス停はここかと尋ねると、「そうだよ。もうじき来るはずだね、たまに来ないときもあるけど」と言っていた。ダウンタウンまで行ったものの閑散として見どころのなさにオールドタウン行きのバスに乗り換え、しかし余りの熱さに出歩く勇気もなく、結局バスを5本乗り継いで、そのうち2度は乗客が藕花先生のみで、かつ運転手とも顔見知りになり、アルバカーキでの一日は終わった。
 翌日はニューメキシコ大学の図書館に集合して午後にシャトルバスでタオスへと向かうという予定が組まれていた。プログラムには9時30分に図書館集合となっている。しかし国際学会を何度も経験している藕花先生は知っている、9時30分に図書館へ行ったところで何も始まらないのだ。先生は11時前に図書館に到着した。やはりちょうどぼちぼち皆が集まり始めた頃合いである。旧友と会って久しぶりの再会を喜んだり、初めての人に挨拶したり、図書館のコレクションを眺めたりしていると、もう一人の日本人参加者M氏が到着した。コロナ禍になって以来、オンラインでは何度か会っていたが、アメリカの地でやっと本人に会えるというのも不思議な感覚である。一息つくとランチが各自に1袋ずつ配られ、それを図書館の公共スペースなり、外のベンチなりでおのおの好き勝手に食べるという、これまた予想通り規律もまとまりもないスタイルである。昼過ぎに食べ終えて時間を確認すると、出発までまだ1時間もある。すでに何度も見たコレクションをまた眺めるなり、誰かと世間話するなり、各人次第という緩さである。ここでM氏が大学内を探索しようと言う。こちらとしてはこの酷暑の中、少しでもエネルギーの消耗を防ぎたい一心であるのに、M氏の溢れんばかりのヴァイタリティは今回も健在のようだ。先生より18歳も年上で、今年で御歳70というM氏がキャンパスの中をずんずん進んでいく。M氏とは大学の先輩後輩ということもあり、またM氏の尽きせぬ好奇心と物おじせぬ行動力に崇敬の念を抱いていることもあり、藕花先生はM氏を慕っているのだが、今回がもしかしたらM氏と一緒に参加する最後の国際学会になるかもしれぬという懸念を、口には出さぬが藕花先生は抱いている。2人は池を見つけ、その傍らに腰を下ろして思い出話に浸った。「ノッティンガム大学でもこんな感じで池のそばに座って話したなぁ」ともう20年近く前にイギリスであった学会のことをM氏は懐かしがる。藕花先生はそのとき池の傍らで話したかどうかは覚えていなかったが、その学会は先生にとってとりわけ思い出深いものであった。というのも会場のホテルが立派すぎて値段が高いというので、M氏の提案で2人してツインに泊まることになり、その後ロンドンでも同宿し一緒にプロムスに行ったりしたのだ。それは藕花先生にとっては2度目の国際学会で、思えばずいぶん時間が経ったものだ。今回初めてアジア系の学生から、しかも2人から、「プロフェッサー・イワイとお呼びすれば良いですか、それともガクで良いですか」と聞かれた藕花先生は、かつて自分もある功名な韓国人の教授に対して同様のことを尋ねたことを思い出し、つくづく時の流れを実感した。
 学会は朝から晩まで皆と一緒である。通常であれば各々のホテルから学会会場に毎朝通ってくることになるが、遠方に山々が連なり周囲はハーブとサボテンの一面の原野であるこの地ではそういうわけにはいかない。ホテル(というかバンガロー)と同じ敷地内にある建物の大きな2部屋を使って学会が開催され、そのうちの1部屋は食堂と兼用である。朝食は砂糖が大量にかかった甘ったるいパンやチョコレートマフィンとヨーグルトのみという、日本であれば皆がブーイングの大合唱となるであろう代物である(よくイギリスの食事はまずいと(正しくはないが)言われるが、今回のアメリカ滞在で藕花先生はアメリカの食べ物の次元の異なる不味さを身をもって認識した)。そして朝食後8時30分から研究発表となるが、半ば予想していた通り、開始時間を過ぎて会場に行ってもまだ始まっていない。国際学会での研究発表は3、4人が1グループとなり、1人20分ずつの発表の後、全体でディスカッション、トータルで1時間半から2時間のセッションとなるが、発表する側も、会場で議論に参加する側も、基本的に誰も時間など気にしない。初日の夕方、最終セッションでの発表となっていた藕花先生のグループは終了予定時刻を大幅に超過して終了、皆でぞろぞろと隣の夕食会場に行くと、もう一つのセッションに参加していた人たちがすでに食事を始めていた。
 学会は1週間にわたって開催されるが、その間には研究発表だけでなく、作家ゆかりの地や地元の歴史スポットを巡る企画も入ってくる。その際、行き先の希望によっていくつかのグループに分かれたり、食事のための場所を前もって確保しておくために、「登録」が必要になることがある。「登録」といっても、それぞれの行き先が手書きで書かれた紙に前もって自分の名前を書いておく、というだけである。しかし「登録」してあったところで、結局はその場の流れや雰囲気で行動することになるのであり、そもそも「登録」自体をしていなかったり自分がどう書いたか覚えていない人もいる。藕花先生自身も、行く気がなく登録すらしていなかった歴史スポット巡りにいつの間にか合流してしまい3時間も付き合わされる羽目になったし、登録していたイタリアンのレストランが「4人しか入れないみたいだから、やっぱ適当なとこ行って」ということになって何人かでタオスの村をさ迷うこととなった。
 このように何かにつけ規律もまとまりもない国際学会だが、これは学会の中味自体がぐだぐだであることを意味しない。藕花先生は、国際学会の聴衆ほど、ひと言も聞き漏らすまいという集中力でこちらを凝視し耳を傾ける人たちを知らない。逆に藕花先生は自分がこのような集中力でもって他人の発言を聞き続けられる自信はない。彼らからすれば、学会発表は学者の晴れ舞台であり、その後のディスカッションは満足した食事の後のデザートのようなものである。藕花先生はディスカッションがデザートであるという境地に至ったとは到底言えないものの、今回の発表は予想以上に評判が良く、多くの人たちから賛辞を得た。ただし先生は複雑な心境である。というのもこの発表は自分の最新の研究ではなく、4年前に日本で発表したものの焼き回しであり、この数年間まともに研究すらできていないことの証左であるように感じられ心が痛んだのである。

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 帰国時に陰性証明が必要となるのは、今回の参加者の中では日本人と韓国人だけであった。学会側は常時マスク着用を謳い、推奨マスクの型番まで挙げていたが、実際にマスクをしているのは日本人と韓国人、そして自称ラディカルのアメリカ人だけである。ヨーロッパでもアメリカでも人々はもうマスクはしていない。しかしだからといって、マスクをしていると不審がられたり笑われたりということもない。ここでは各人のやり方が尊重されるのである。学会の2週間前にアメリカ入りし、各地を回ってきたM氏に言わせると、その間出会った人たちの中でマスクをしていたのは3人だけだったという。実際、ロスからアルバカーキへの国内線では客室乗務員の男性はマスクをしていたものの、出発前のアナウンスになるとおもむろにマスクをアゴまで下ろし、マイクを使って話し始めた。そのときはまだ距離があったから良かったものの、飛行が安定するとアゴマスクのまま1人1人の座席を回って「どこへ行ってきたんだ、楽しかったかい?」と大声で乗客との会話を楽しんでいる。この乗務員が自分に近づいてきたとき、まだ目的地に着かずして感染するわけにいけない藕花先生は、強力な邪気払いのアウラが自分の身体から放出されるよう強く念じながら、寝た振りをしてやり過ごした。
 今回の渡米での最大の懸案事項であった帰りのコロナ検査は、意外にもあっさりと解消した(と一時は思われた)。出発前のリサーチで、学会会場のすぐ裏にコロナ検査場があるらしいという情報を得ていたので、タオス到着後の最初の仕事はまずそこへ行って確認することであった。しかしホテルに到着して周囲を見渡してもそれらしき建物はどこにも見当たらない。フロントに行って聞いてみると、なんと学会会場と同じ建物の一室で検査がおこなわれているという。早速そこに例の表とリストを持って出向き、有効な検査が受けられるか、必要な8項目が得られるか聞くと、アルバカーキ空港でのときと同じようにろくに確認せずオーケー、しかも無料だと言う。フライトが月曜の朝8時、出国72時間以内の検査が必要なので先生は金曜日に検査を予約し、そして予定通り、金曜の午後2時50分に検査を受けた。結果はメールで翌朝には届くという。念のためその場で必要8項目のうち、検査結果を除く7項目を手書きで記入してもらった。後は検査結果を待つだけ、これで陽性にさえならなければ万事問題なし、となるハズであった。
 ところが翌日になっても結果が届かない。夕方、しびれを切らして電話で確認すると、あろうことか採取した検体を無くしたからまた月曜に検査を受けろという。しかし帰りのフライトは月曜の朝8時だからそれは出来ない、日曜までに陰性証明が必要だと力説すると、明日中には何とかすると言いながら、「ところで今症状はあるのか? 熱は?」と聞いてくる。藕花先生は必死になって「無い。間違いなく何の症状も無い」と主張し、とにかく何とかしてくれと言って電話を切った。すると何とその半時間後、メールで陰性証明が送られてきたではないか。これは検体が見つかったということなのか、証明書が捏造されたのか、ラボは今日はもう閉まっているから明日何とかする、と言っていたことからしてもどちらなのかは明白である。もちろんこの程度のことで罪悪感を抱く藕花先生ではなく、何はともあれ証明書を手に入れほっと胸をなで下ろしたものの、しかしよく見るとそこには検体を採取した時間が記されていない。アメリカ出国の72時間以内の検査が必要となるので時間の記載は必須であり、それがなければ日本への入国は認められないと厚生省のHPには赤字で書かれている。しかし藕花先生は、検査時に手書きしてもらった文書も持っている。この両方を突き合わせれば、金曜の午後2時50分におこなわれた検査が陰性であることは明らかだし、そもそも朝8時の便なので検査日が金曜であれば72時間以内に検査されたことは明白であるわけで、藕花先生は常識的な判断をする国家であればこの二つの文書でもって入国が可能になるはずだとの確信を持っていた。とはいえ先生は、日本がその「常識的な判断をする国家」であるかどうかについては、いま一つ確信が持てなかった。実際、入国条件の一つとして「My SOS」なる、その名称自体が不具合なようなアプリを各自のデバイスにダウンロードせねばならないのだが、入国の事前審査をおこなうこのアプリに先の二つの文書をアップロードして事前審査を依頼してみたところ、すぐに却下との連絡がきた。検体採取時間が陰性証明書に記載されていない、という理由だろう。簡単には引き下がらない藕花先生はもう一度二つの文書をアップロードして審査に送るが、再び却下となった。半ば予想していたように、藕花先生の祖国は「常識的判断」ではなく「定められた規則」を機械的に遵守する、というスタンスらしい。
 そこで藕花先生は保険会社に連絡し、このようなケースで帰国が遅れた場合に保険が適用されるのか聞いてみた。すると、事故として処理すれば帰国が延びた分の宿泊費、帰りの便の旅費、その間の必要経費が保険で下りるという。先生は少し胸をなで下ろし、その手続きなどについて聞いていったが、この気前のよい保険会社の説明の中に一瞬出てきた言葉を聞き逃さなかった。「上限5万円」。これが聞き間違いでなければ、「宿泊費、帰りの便の旅費、その間の必要経費」とはいっても実際にはそのうちの微々たる金額しか保証されないということではないか。先生はそのことを問いただすと電話の向こうは「金額については5万円が必要な経費のごく一部かどうかは分かりかねる」という。「ごく一部」でしかないのは明白なのにこのような機械的な対応しかできない硬直さに先生はまたもや日本社会の暗部を見たような気持ちになり、早々に電話を切った。
 このような騒動のさなか、藕花先生宛に大学から緊急のメールが送られてきた。それによると先生が出国前に提出した、後期授業のTA予定表の講義予定日欄に曜日の記載が抜けているという。大学の当局に確認したところ手書きで曜日を書き込めば良いとのことであるが、事務の方で書き込んでも良いか、との連絡であった。そもそも曜日の記載が抜けていたところで日時は明らかであるし、抜けていたならその場で書き込めば良いことで、そのようなことまでいちいちアメリカにまで連絡して確認を求めてくる杓子定規な対応に、藕花先生はまたもや暗澹たる気持ちになった。硬直化し柔軟性と適応性を失い、真綿で自分の首を締めるようにどんどん身動きが取れなくなっていく今の日本社会に住む藕花先生には、一見秩序や規律はなくとも各自の判断で必要最低限をクリアし、それなりに乗り切っていく柔軟性と強靭さを持った世界がむしろ羨ましく感じられた。

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 藕花先生は、入国時に税関で例の二つの文書を示して主張すれば入国が認められるはずだと信じるだけの愛国心を依然持ち合わせてはいたが、念のため、最終手段であるアルバカーキ空港での検査も受けておくことにした。帰国前日の夕方に学会のシャトルバスでアルバカーキに到着し、皆との別れを惜しんだ後、先生は一目散に空港の検査ブースへと向かった。すると藕花先生のことを覚えていたかどうかは定かではないが、前回と同じ丸顔で坊主頭のスタッフが相変わらず受付にちょこんと座っていた。先生は検査結果が一番早く出るという280ドルの「エクスプレス」を選択し、必要事項をiPadを通じて打ち込んでいった。最後に「このアプリで結果を伝えるので必ずダウンロードすること」というアプリをダウンロードしようとするが、何度試みても上手くできない。受付から呼ばれたのでアプリをダウンロードできない、と言うと、別にしなくていいと言う。結果が通知されないと困るので、先生は本当に不要なのかと何度も確認するが、問題ないと涼しい顔をしている。そうこうするうちに単なる受付かと思っていた例の丸顔の男性がおもむろにマスクと防護服を着込んで登場した。さっきまで検査の種類の説明やらiPadに打ち込む検査ブースの住所などマスクもせずに至近距離でやり取りしていたのに、今さら完全防備したところで意味ないだろうとは思ったが、先生は黙っておとなしく検査を受けた。
 帰国となる翌朝、藕花先生は早朝6時にアルバカーキ空港へと向かった。搭乗手続き時に陰性証明がなければアメリカからの飛行機にも乗れないということになっているが、空港カウンターでタオスで取得した陰性証明を見せると「検査した時間が書かれてないが何時だったか覚えてるか?」と聞かれ、「2時」と答えると「OK」ということで事も無げに飛行機への搭乗が許可された。ロサンゼルスの空港でも再度証明書を見せる必要があり、JALの外国人スタッフに陰性証明を見せるが検査時間が書かれてないと言うので、先生は今度は手書きのもう一つの文書も見せ、この二つがあれば大丈夫なはずだと主張するが、相手はなかなかうんと言わない。最終的には、日本入国が認められるかは保証できないが「リスクを承知の上なら」搭乗は認めると言う。日本の領域にさえ入ってしまえば何とでもなると考えていた藕花先生は、喜び勇んで搭乗手続きを進めた。
 ロサンゼルスでは搭乗予定の便が遅れたということもあり、6時間ほど空港で時間を潰さねばならなくなったが、ここでも規律と秩序の無さは明白だった。アルバカーキから早朝の便に乗った先生は空腹に苛まれており、時間もたっぷりあるのだからゆっくりと食事をしたいと考えていた。ところが開いているところは出来合いのサンドイッチなどを売る店ばかりで「料理」と名のつくものが食べられそうな店がない。これまでの経験から、アメリカで出来合いのサンドイッチを買うと、味も素っ気もないぱさぱさのパンに巨大な肉の塊が挟まっているだけで空腹時すら数口で御免となるような代物に遭遇することを学んでいる。空港内をさ迷っていると、サンドイッチとはいえ少しはましに見える食物が買えそうな店を見つけ、妥協してそれを注文しようとした。ところが「今作る人がどっか行ってるからでき上がるのは30分か1時間後ね」とこともなげに言う。あきれた藕花先生は「ならばいらぬ」とひと言浴びせかけ、レジを後にした。その後KFCを発見し、普段ならば唾棄し見向きもしないジャンクフードにこのときばかりは喜び勇んでカウンターに向かうが、しかし店員はまだ開店していないと言う。見ると並びの何件かもまだ暗いままである。昼時にもかかわらず開店せず平然としているとは一体どういう料簡であろうか。この国ではすべてに規律も秩序もない。
 このようにしてまともな食事にありつけずに空港内をさ迷っていると、前日にアルバカーキ空港で受けた検査の結果が陰性証明とともにメールで送られてきた。今回は検査時間もしっかりと記載されている。そこで例のアプリMy SOSに改めて審査依頼を送ろうとするが、すでに何度も却下されているためか事前審査のクリックができない。相変わらず使い勝手の悪いアプリだが、色々と検索しているうちにアプリでなくともウェブ上にもMy SOSなるサイトがあることが分かる。そのサイトで改めて事前審査を申し込むと、半時間後に「受理、帰国可」の連絡が来た。日本国民である藕花先生は、これでめでたくなんとか日本再入国が認められたのである。
 後は予定通り帰国するだけであったが、ロスから東京への便が遅れ、東京に一泊することとなった。飛行機を降りた途端にJALのスタッフからその旨告げられ、手荷物を受け取るまでにはホテルを手配するという。すでに事前審査を受けていた税関で藕花先生は、わざわざパスポートにハンコを捺してもらう余裕まで見せ、手荷物受取場で自分のスーツケースを待っていた。すると今度は別のJALのスタッフが近づいてきて、手配したホテル名とそこまでの行き方を手際よく教えてくれた。ロサンゼルス空港での放浪とその後の10時間の飛行に疲れ切っていた藕花先生は、そのホテルにありがたく一泊することにした。この国では、スタッフによって異なることを言われる心配はない。遭遇するスタッフにその都度一から説明する必要もない。ホテルへのシャトルバスも時刻表通りに到着する。この組織立ったサービスに、アメリカであればこうはいかぬと日本の秩序と規律に改めて感謝し、藕花先生はホテルへと向かうシャトルバスの中でMy SOSをiPadから削除したのであった。

July/2022