Fantastic Voyty《ファンタスティック・ヴォイティ》
なんでこれがこんなに売れたのか、というか発売前から増刷されるなんて。だって中身はとても暴力的で、読んでて楽しいとか気分が良くなるとか、そんなんじゃ全然ないし。テレビだか新聞だかに「読み始めたら面白くて閉じられなくなった」的な読者の感想が載ってたけど、面白いハズだっていう思い込みで、読む前から暗示にかかってんじゃないの? 中身関係なくネームヴァリューだけで売れてるってこと? あるいはメディアによる宣伝工作? それとも何も自分で考えずに周囲に流されてるだけ?
それにこの主人公なに? 男のほう。数学の先生で、作品番号だけでバッハの曲目が分かって、全国大会レベルのスポーツマンで、いかにも女の子が惚れそうな感じで手早く洒落た料理なんかも作っちゃって、しかも小説書けるなんて。こんなやついるの? それとも書き手の願望充足?
そもそもタイトルがモジリっていうのが――とK子は思う、そこからして、だいたい社会批判的な小説って想像できちゃうじゃん、おそらく政治的で、今の世の中をある種の全体主義的社会と見て――大衆は思考停止して、周囲の人がやってることをまねるだけ、この小説の売れ方そのものが象徴してるように――それにクギを刺そうってのか。半世紀以上前は、全体主義的支配といえばビッグ・ブラザーだったかもしれないけど、いまはリトル・ピープルってこと? これいわばフーコー的なマターナルな支配形態の象徴?
まぁ1984年が舞台とはいえ、少なくとも二一世紀初頭の今を風刺してることは明らかだね。だってワインにうるさい政治家が来て知ったかぶって御託並べてエラソーに帰ってったってとこなんて、どう考えたってあの「もうろう顔」思い出しちゃうもんね。いちいち覚えてないけど、他にもあからさまな当てつけってあったわね、「口のひん曲がった首相」なんてのはさすがになかったけど。いずれにせよ、著者が否定的に捉えて揶揄してんのが誰か、ってのが明確で、そういう意味でこれまで以上にモラリスティック。ていうか、へんに正義感が出ちゃってるような。海外でやけに受けいいもんだから、賞なんか意識してつい色気出しちゃって、へんにメッセージ伝えよう見たいな。その辺タイトルからして想像つくんだけど。
絶対海外でのマーケットも想定してる、とK子は思う。でも翻訳するとして、タイトルはやっぱ『1Q84』だろうけど、「『Q』は日本語で『9』と同じ発音です」なんて野暮な注つけるんだろか。それとも「Q」と「9」を似た感じの字体にするんだろうか。何となく可能そうだ。それにしてもこの表紙……。ウルトラマンの始まりの「ウルトラQ」て出るとこつい思い出しちゃう。それかオバQの後ろ姿。でも、この頭でっかちのQって、なんか違う。なに……そう、精子。本の中の登場人物たちに不毛に消費される精子。頭でっかちで、奇形と化した、もはや正常な機能を持たない精子。この表紙って、作品の内容そのものを見事に象徴してるわね。
それにしてもこの愛のなさって。作品全体を貫いているのは愛のない人間関係と暴力。ペドフィリア、不倫、乱交……。ここで描かれる性には愛、ロマンスのかけらもない、身体と身体の混じりあいに過ぎない。主人公の二人も家族愛を知らない。読んでて確かに気持ちのいいものではないけど、「愛がすべて」みたいな安っぽい物語が氾濫する今時にしては、逆にすかっとサッパリしてるかも。SFでも最後には家族愛の物語になっちゃうハリウッドとか、セックスとヴァイオレンスを徹底的に排除したディズニーとか、そんなんが受けてる世の中を挑発してるというか。白雪姫と七人の小人が、セックスとヴァイオレンスの渦巻くパラレル・ワールドに入ったらふかえりとリトル・ピープルになっちゃった、みたいな。
家族愛を知らない主人公二人にとって、どんな「家族(愛)」が可能?
タマルが私に伝えたかったのは、私は今では彼らの属しているファミリーの不可欠な一員であり、いったん結ばれたその絆が断ち切られることはないというメッセージだったのだろう。青豆はそう思った。私たちはいうなれば擬似的な血で結ばれているのだ。そのメッセージを送ってくれたことで、青豆はタマルに感謝した。青豆にとって今が苦しい時期だということが彼にはわかっていたのだろう。ファミリーの一員だと思えばこそ、彼は自らの秘密を少しずつ彼女に伝えているのだ。
しかしそのような密接な関係が、暴力というかたちを通してしか結ばれないのだと思うと、青豆はやりきれない気持ちになった。法律に背き、何人かの人を殺し、そして今度は誰かに追われ、殺されるかもしれないという特異な状況に置かれて、私たちはこのように気持ちを深く結び合わせている。しかし、もしそこに殺人という行為が介在しなかったら、そんな関係を打ち立てることは果たして可能だっただろうか。アウトローの立場に立つことなく、信頼の絆を結ぶことはできただろうか。おそらくむずかしいはずだ。(BOOK2、372 - 73頁)
暴力を介さなくては成立しない家族愛。「家族(愛)」を自然でやたらに崇高なものというモラルを押し付けてくるこの社会(「親が自分の子供にそんなこと……」)あるいはハリウッド(最後は家族の再会)に対するアンチテーゼ。世の中の風潮に物申す、という点では、ハリウッドやディズニーに共通の善悪二元論にも反旗を翻してる。
「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で矮小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。とてもはっきりしている。もしBという説が真実だと主張するものがいたら、人々はおそらくその人物を憎み、黙殺し、ある場合には攻撃することだろう。論理が通っているとか可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味も持たない。多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている」(BOOK2、234頁)
これなんか、善悪二元論で世の中を見るハリウッド的論理、アメリカ的(そして日本的?)正気の保ち方だね。自分たちは疑いもなく「善」で、自分たちが「悪」と認識したものには存在価値を認めない、自分たちの幸せのためなら「敵=悪」はこの世から抹殺しても構わないっていう典型的なハリウッド的世界観にこの世が支配されてるってことを「さきがけ」の教祖は言いたいみたいだね。短絡的な批評家なら「作者を代弁している」とかいいそうな、教祖の言葉――
「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある……」(BOOK2、244 - 45頁)
悪の権化として登場するかと思いきや、彼には彼なりの論理があるし、むしろ真理を言い得てるんじゃないかとすら感じさせるように描かれてる。結局、悪ってなに? 善って? 女たちに自己の充足のために暴力を振るう男たちを抹殺していく青豆は善い者? 教祖は? 結局は善悪二元論では世の中捉えられないぞ、みたいな。(でもこの善悪二元論って、1984年じゃなくて20世紀末からの、ブッシュ・ジュニア以降の世界観だけどね。)
この人の作品は、いつもマザコン小説だって感じがするんだけど、例えば『海辺のカフカ』で、主人公が――なんて名前だったかもう憶えてないけど、入り口の石をどけて奥へ奥へ、って、ママの子宮への回帰願望としか読めないじゃん。でも今回は逆に父親なんだよね、願望の対象が。それからマザコン臭くないもう一つの理由は、さなぎという子宮のマユんなかに納まってんのが女のコだからね。
それにしても「空気さなぎ」って何? 「いったいこれは何だ? 天吾はそこに立ちすくんだまま目を細め、自分に問いかけた。……そのまわりには現実の位相から外れた、何か特殊な空気が漂っていた。……胃が金具で締めつけられるような激しい既視感があった。……その白いさなぎは仄かな光を発しながら、そこにじっとしていた。それは……天吾が近づくのを静かに待っていた」そしてそっと近づいていって指先でマユに触れる天吾――って、これモノリスじゃん。いっそ『1Q68』にでもしたら。そういえばキューブリックがせっせとモノリス撮ってるとき、科学者たちが自らの身体を顕微鏡でしか見えないところまで縮小し、患者の身体のなかに入り込んで外科手術をおこなおうとするSF映画が公開されたとかアーサー・C・クラークの本に確か書いてあった。
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結局、読んでて気が滅入るような暴力的世界なんだけど、今の世の中を描くために必要だと考えたんだろうね。作品中にもチェーホフの言葉として引用されてるけど、
「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である。」
現代社会の問題を提起するためにはこのような表現方法が必要だと考えてるんだろうね。で、ネームヴァリューやマスコミの宣伝でこんな小説が爆発的に売れちゃう、てのは、はからずもこの小説の中で批判されてるような脳死状態の人たちでこの国が構成されているからかもね。
「しかし言うまでもないことだが、ユートピアなんていうものは、どこの世界にも存在しない。錬金術や永久運動がどこにもないのと同じだよ。タカシマのやっていることは、私に言わせればだが、何も考えないロボットを作り出すことだ。人の頭から、自分でものを考える回線を取り外してしまう。ジョージ・オーウェルが小説に書いたのと同じような世界だよ。しかし君もおそらく知っての通り、そういう脳死的な状況を進んで求める連中も、世間には少なからずいる。その方がなんといっても楽だからね。ややこしいことは考えなくていいし、黙って上から言われた通りにやっていればいい。食いっぱぐれはない。」(BOOK1、222頁)
メディアの振る舞い次第で選挙結果が左右されてしまうこの社会。殺人や自殺や疫病までもがブームになるこの社会。そして内容に関係なくもてはやされたものが売れるこの社会。結局この世もオーウェルの頃からあまり変わってないってことか。
「パラレル・ワールド」なんていうと、いかにもファンタジーの世界でしかないけど、意外と現実的なものかもしれない。つまり、今の「現実」ってのが、メディアに作られたかなり作為的な世界でしかなくて、そんな作られたマユのなかの世界を「現実」って勝手に思ってるだけかもね。もしかしたら私なんかその「現実」とは違うパラレル・ワールドに生きてるクチかも。だって世の中から意図的に距離を取ってるわけじゃないけど、ケータイも腕時計も持ってないし、テレビなんか観る気もしないし――自称「芸人」たちがばか騒ぎするだけだったり、中学生の作文みたいな歌詞をラリッて臆面もなく歌う「アーティスト」とか、意味ないっしょ――それに仕事場の医務室に「ビタミンCありませんか!」って血相変えて飛び込んでったら大笑いされたし。
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K子は部屋の窓から夜空を見上げ、月が二個に増えていることを発見する。いつもの月の近くに、より小さな二つ目の月が、ひからびかけた豆のように浮かんでいた。世界は変化を遂げたのだ。そして何かが起ころうとしている。
完 (Aug 2009)